流《る》浪《ろう》の将軍後継者と光秀らの一行は、日本海岸に出、道中の宿代りということもあって若狭は武田義統《よしむね》をたよった。
若狭武田氏は、遠くは甲斐《かい》の武田信玄と血統をおなじくする名族で、げんに当主の義統は足利家から妻をめとり、武家貴族としては典型的な存在だが、なにぶん弱小大名で、戦国の風雲に堪えられるような軍団をもっていない。
足利義秋も、
「若狭は仮の宿」
と、いっさい期待しなかった。
問題は、北国の雄ともいうべき越前の朝倉氏である。これはいささか頼りになる。
そのため、光秀は細川藤孝とともにすでに先発し、朝倉家に義秋を迎える工作をすべく、その首都越前一乗谷に入っていた。
受入れの話はうまくすすんだ。
「そうか、若狭にまで参られておるか」
と、国主の朝倉義景は、むしろそのことをきいてあわててくれた。義景は政治的才能もない。軍事的才能もない。かれがあわてたのは旧家の当主の人の好さによるもので(畏《おそ》れ多いことよ、ゆくゆくは将軍の位につかれるべき貴人を、隣国若狭の弱小大名の小城に仮泊させておくに忍びない)という感情がさきに立った。
「光秀、すぐお連れ申せ」
と、いった。
ただ朝倉家で評定《ひょうじょう》をこらしたところ、住んで頂く場所が問題である。首都の一乗谷が保護にはもっとも適当だが、なにぶん、細ながい谷間で、ゆったりと暮らしていただく土地もなく建物もない。
「敦賀《つるが》がよい」
ということになった。敦賀は一乗谷とはちがい、海岸に面して万一の場合海上への脱出が可能であり、それに陸上交通の要衝でもあり、義秋が諸国の大名に使いをやったり使いを受けたりするのに便利がよい。
かつ、敦賀の金ケ崎城というのは海に突出した岬《みさき》をそのまま城郭にした要害で、二万や三万の人数では陥《お》ちる心配のない城である。
「なるほど敦賀ならば」
と、光秀も藤孝も承知したため、朝倉家では、九月のはじめ、堂々たる儀仗用《ぎじょうよう》の軍勢をととのえて若狭まで義秋をむかえにゆくことになった。
その儀仗用の軍勢の先駆として明智十兵衛光秀はすすんだ。ときに齢《よわい》、かぞえて三十九歳であった。
もはや、若くもない。成すところもなくいたずらに齢のみかさねてしまったことは光秀の居ても立ってもいられぬ焦燥《しょうそう》であったが、しかしその風姿は若く、目の涼やかさ、眉《まゆ》の清さは、青雲の志に燃える洛陽《らくよう》の青書生にもさも似ていた。
が、光秀の軍容は、もはや書生のそれではない。二百人の騎士・歩士《かち》をひきつれ、美濃の土岐《とき》一族の象徴である桔梗《ききょう》の旗をひるがえし、堂々たる一手の大将の軍容をもって若狭への街道をすすんでいた。
これには多少のからくり《・・・・》はある。光秀がひきいた手《て》勢《ぜい》のうち、直属兵というのは弥平次以下十数人にすぎず、他は、光秀の後ろ楯《だて》になってくれている朝倉家老の朝倉土佐守から借りた借り武者であった。
(光秀は朝倉家ではそれくらいの待遇をうけているのか)
と言われたい見栄がある。
足利義秋に対しても、友人細川藤孝に対しても、そのようにおもわれたい。
光秀は颯爽《さっそう》と若狭へあらわれ、武田家から義秋をひきとり、敦賀湾の海岸線を通りつつ金ケ崎城に入った。
そのあとの光秀の仕事は、義秋と朝倉家との間に立って連絡官をつとめることであった。
敦賀の金ケ崎城に落ちついた翌日、気の早い小動物のようなところのある足利義秋は、
「光秀、朝倉家は、わしのために京へ軍勢を出してくれるか」
と、念を押した。
「さあ、いかがでございましょう。光秀は極力それを説いておりまするが、朝倉家の家風は進取をこのまず、古井戸に棲《す》む金目蛙《きんめがえる》のごとくひたすらに風を避け、烈日を避け、事無かれで過ごしたいという思いで凝りかたまっているようでございます。数日後に、一乗谷からお屋形様(義景)みずからが馳《ち》走《そう》に参られるはずでありますれば、公方様おんみずからお説きくだされればいかがでござりましょう」
「説くには説くが」
義秋はいった。義秋は、小《こ》商人《あきんど》のように息せき切った物の売り方をする男だ。説くなといっても説くであろう。
数日後に、朝倉義景が、はるばると木ノ芽峠の嶮《けん》路《ろ》をこえて敦賀の野に入り、金ケ崎に登城して義秋の御機《ごき》嫌《げん》をうかがった。
朝倉義景は城の月見御殿で酒宴を用意し、一乗谷からつれてきた美女二十人に義秋を接待させ、大いにもてなした。
朝倉義景は、酒の好きな男だ。豪酒でしかも酔態がおもしろい。
酔えば、舞うのである。
「それ、鼓《つづみ》を打て、笛を吹けや」
とさわがしく舞い、ついに舞いくるって自分でもどこでなにを舞っているのかわからなくなる男だ。
そのあいま、あいまに、杯をささげて行っては義秋の御前にすすみ、
「御酒を頂戴《ちょうだい》なしくだされたし」
と、酒をせがむのである。こういう手の男にあっては、義秋も、天下国家の問題をきりだすすきがない。
ついにたまりかねて、
「義景、ちと話がある。女どもをさがらせてくれ。鳴り物はやめよ」
と、黄色い声を出した。
朝倉のお屋形は、びっくりした。なにか接待でお気に召さぬことがあったのかと思い、
「酒《さけ》よ酒よ、これ女ども。なにを白々しくすわっておるか。お酒を捧《ささ》げ奉れ。それ、捧げ奉れ」
とさわぐ始末で、義秋も手がつけられず、ついに光秀を膝近《ひざぢか》にまねきよせ、
「あの男、あの酔態は本性か手か」
と、小声できいてみた。
光秀は、恥ずかしげにうつむき、
「手でござりませぬ、本性でござりまする。あのお人様はあれだけのことで裏も表もござりませぬ」
と答えた。この酔態に裏も表もあって、酔態そのものが義秋の要求をくらます手だとすれば、朝倉義景もまんざら捨てた男でもないであろう。残念にも、これが素のままなのである。
「あれが、素か」
義秋も失望したらしい。
翌日、朝倉義景は、酒の気のぬけぬ顔を真青にしながら、一乗谷へ帰って行った。
「素か」
義秋は、あとで何度も笑った。もうしんぞ《・・・》こ《・》から朝倉義景を見限りはてたのであろう。
夕刻から、側近ばかりの評定をひらき、
「朝倉義景はあのざまだ。いつまでもこの朝倉領敦賀に居てよいものかどうか。居たところでなんの利もあるまい」
と気ぜわしい提案を出した。
ちなみにこの評定には、光秀が朝倉家の家来であるということで、座をはずさせられていた。
「もとより、朝倉義景ごときは頼りになりませぬ。最初からわかっていたところでございます」
といったのは、細川藤孝である。
「問題は朝倉ではござりませぬ。越前のむこうは加賀(本願寺領)、加賀のむこうは越後、その越後の上杉輝虎《うえすぎてるとら》(謙信)でございます」
藤孝の説くところは、明晰《めいせき》である。
越後の上杉氏こそ軍事力といい誠実さといい、頼りになる存在だが、いまのところ、甲斐の武田氏と川中島を戦場にいく度となく大合戦をくりかえし、上洛《じょうらく》どころのさわぎではない。武田氏をほろぼすか、講和を遂げるか、いずれかのかたちで事がおさまり次第、義秋を奉じて上洛するということは、輝虎が何度も言ってよこしている。
いざ上杉上洛となれば、越前朝倉氏はとこ《・・》ろてん《・・・》のように後ろから押し出され、物理的にその先鋒《せんぽう》として上洛せざるを得ないだろう。
「その時がまだ至りませぬ。時をお待ちあそばすことでございます。お待ちあそばすには、この敦賀金ケ崎城が、なによりの要害ではありませぬか」
「上杉と武田の戦いはいつ終わるのだ。まるで果てしもないではないか。そのような甲越《こうえつ》の騒乱を、この敦賀で待てというのか。待つうちに義栄《よしひで》(三好・松永がかついでいる将軍候補者)が将軍の位についてしまう」
「しかし」
細川藤孝は、絶句した。
(それしかないではないか。待つ、待ちつづける、それ以外にこの無力な将軍後継者にどういう手があるのだろう)
藤孝はおもった。実のところ藤孝は、かれ自身が世間にひっぱり出してきたこの義秋という僧侶《そうりょ》あがりの貴人が、あまりにも軽躁《けいそう》な性格であることに多少、いやけがさしはじめている。が、それでも義秋をかつぎあげてゆかねばならないとも観念していた。藤孝は幕臣なのである。それ以外に、どういう道もない、と、藤孝は臍《ほぞ》をきめていた。
評定は、一日でおわったわけではない。
金ケ崎城の奥の一室で、何日も、繰りかえし繰りかえしつづけられた。その間、光秀は室内に入れてもらえなかった。
「決して疎《うと》んずるわけではない」
と、藤孝は気の毒そうにいった。議題が議題だけに朝倉家の悪口も出るのだ。光秀が同席しては光秀自身もつらかろうし、他の者も思うままの発言ができない、という理由を、光秀に語ってきかせた。
「わかっている」
光秀はわざと明るく笑い、相手に気を使わせまいとしたが、内心は憂鬱《ゆううつ》であった。除《の》け者のさびしさもある。
(なにもかも、朝倉義景の優柔不断の性格、不決断が、わしの立場を卑小にしてしまっている)
光秀も、じっとしていたわけではない。敦賀と一乗谷のあいだを往復しては、朝倉義景やその老臣に、上洛進発の決意をうながしてはみた。
そのつど、朝倉家の態度は、
「気狂《きちが》いじみた妄想《もうそう》よ。このちっぽけな越前朝倉家が、畿《き》内《ない》(近畿)をおさえる三好・松永に対抗できると思うか。いやさ、京にたどりつくまで、近江《おうみ》で木《こっ》端微《ぱみ》塵《じん》の敗亡をとげてしまうのがおちだ」
ということであった。
が、朝倉家も、
「上杉が動けば動く」
という逃げ口上はもっていた。日本最強の軍団である上杉氏さえ動けば、その征《ゆ》くところ群小大名はあらそって味方に参じ、京都での合戦は勝利にきまっている。
(その上杉が、動けぬのだ。武田信玄に食いつかれている以上、動けるのは十年さきか、二十年さきか、めど《・・》もつかぬことだ)
とすれば朝倉氏は、近い将来にとうてい京へ出ることは絶対ない、といえる。同時に朝倉氏に頼っている以上、足利義秋は将軍になれる見込みはまずない。義秋が将軍になれぬとすれば、それにわが身の将来を託している光秀は、志を天下に展《の》べる機会はもはや訪れて来ぬ、ということになる。
(しかも自分は老いてゆく。来年は数えて四十になる身ではないか)
一乗谷と敦賀との間の山路を往復しつつ、光秀のあせりは日に高まるようであった。
若狭武田氏は、遠くは甲斐《かい》の武田信玄と血統をおなじくする名族で、げんに当主の義統は足利家から妻をめとり、武家貴族としては典型的な存在だが、なにぶん弱小大名で、戦国の風雲に堪えられるような軍団をもっていない。
足利義秋も、
「若狭は仮の宿」
と、いっさい期待しなかった。
問題は、北国の雄ともいうべき越前の朝倉氏である。これはいささか頼りになる。
そのため、光秀は細川藤孝とともにすでに先発し、朝倉家に義秋を迎える工作をすべく、その首都越前一乗谷に入っていた。
受入れの話はうまくすすんだ。
「そうか、若狭にまで参られておるか」
と、国主の朝倉義景は、むしろそのことをきいてあわててくれた。義景は政治的才能もない。軍事的才能もない。かれがあわてたのは旧家の当主の人の好さによるもので(畏《おそ》れ多いことよ、ゆくゆくは将軍の位につかれるべき貴人を、隣国若狭の弱小大名の小城に仮泊させておくに忍びない)という感情がさきに立った。
「光秀、すぐお連れ申せ」
と、いった。
ただ朝倉家で評定《ひょうじょう》をこらしたところ、住んで頂く場所が問題である。首都の一乗谷が保護にはもっとも適当だが、なにぶん、細ながい谷間で、ゆったりと暮らしていただく土地もなく建物もない。
「敦賀《つるが》がよい」
ということになった。敦賀は一乗谷とはちがい、海岸に面して万一の場合海上への脱出が可能であり、それに陸上交通の要衝でもあり、義秋が諸国の大名に使いをやったり使いを受けたりするのに便利がよい。
かつ、敦賀の金ケ崎城というのは海に突出した岬《みさき》をそのまま城郭にした要害で、二万や三万の人数では陥《お》ちる心配のない城である。
「なるほど敦賀ならば」
と、光秀も藤孝も承知したため、朝倉家では、九月のはじめ、堂々たる儀仗用《ぎじょうよう》の軍勢をととのえて若狭まで義秋をむかえにゆくことになった。
その儀仗用の軍勢の先駆として明智十兵衛光秀はすすんだ。ときに齢《よわい》、かぞえて三十九歳であった。
もはや、若くもない。成すところもなくいたずらに齢のみかさねてしまったことは光秀の居ても立ってもいられぬ焦燥《しょうそう》であったが、しかしその風姿は若く、目の涼やかさ、眉《まゆ》の清さは、青雲の志に燃える洛陽《らくよう》の青書生にもさも似ていた。
が、光秀の軍容は、もはや書生のそれではない。二百人の騎士・歩士《かち》をひきつれ、美濃の土岐《とき》一族の象徴である桔梗《ききょう》の旗をひるがえし、堂々たる一手の大将の軍容をもって若狭への街道をすすんでいた。
これには多少のからくり《・・・・》はある。光秀がひきいた手《て》勢《ぜい》のうち、直属兵というのは弥平次以下十数人にすぎず、他は、光秀の後ろ楯《だて》になってくれている朝倉家老の朝倉土佐守から借りた借り武者であった。
(光秀は朝倉家ではそれくらいの待遇をうけているのか)
と言われたい見栄がある。
足利義秋に対しても、友人細川藤孝に対しても、そのようにおもわれたい。
光秀は颯爽《さっそう》と若狭へあらわれ、武田家から義秋をひきとり、敦賀湾の海岸線を通りつつ金ケ崎城に入った。
そのあとの光秀の仕事は、義秋と朝倉家との間に立って連絡官をつとめることであった。
敦賀の金ケ崎城に落ちついた翌日、気の早い小動物のようなところのある足利義秋は、
「光秀、朝倉家は、わしのために京へ軍勢を出してくれるか」
と、念を押した。
「さあ、いかがでございましょう。光秀は極力それを説いておりまするが、朝倉家の家風は進取をこのまず、古井戸に棲《す》む金目蛙《きんめがえる》のごとくひたすらに風を避け、烈日を避け、事無かれで過ごしたいという思いで凝りかたまっているようでございます。数日後に、一乗谷からお屋形様(義景)みずからが馳《ち》走《そう》に参られるはずでありますれば、公方様おんみずからお説きくだされればいかがでござりましょう」
「説くには説くが」
義秋はいった。義秋は、小《こ》商人《あきんど》のように息せき切った物の売り方をする男だ。説くなといっても説くであろう。
数日後に、朝倉義景が、はるばると木ノ芽峠の嶮《けん》路《ろ》をこえて敦賀の野に入り、金ケ崎に登城して義秋の御機《ごき》嫌《げん》をうかがった。
朝倉義景は城の月見御殿で酒宴を用意し、一乗谷からつれてきた美女二十人に義秋を接待させ、大いにもてなした。
朝倉義景は、酒の好きな男だ。豪酒でしかも酔態がおもしろい。
酔えば、舞うのである。
「それ、鼓《つづみ》を打て、笛を吹けや」
とさわがしく舞い、ついに舞いくるって自分でもどこでなにを舞っているのかわからなくなる男だ。
そのあいま、あいまに、杯をささげて行っては義秋の御前にすすみ、
「御酒を頂戴《ちょうだい》なしくだされたし」
と、酒をせがむのである。こういう手の男にあっては、義秋も、天下国家の問題をきりだすすきがない。
ついにたまりかねて、
「義景、ちと話がある。女どもをさがらせてくれ。鳴り物はやめよ」
と、黄色い声を出した。
朝倉のお屋形は、びっくりした。なにか接待でお気に召さぬことがあったのかと思い、
「酒《さけ》よ酒よ、これ女ども。なにを白々しくすわっておるか。お酒を捧《ささ》げ奉れ。それ、捧げ奉れ」
とさわぐ始末で、義秋も手がつけられず、ついに光秀を膝近《ひざぢか》にまねきよせ、
「あの男、あの酔態は本性か手か」
と、小声できいてみた。
光秀は、恥ずかしげにうつむき、
「手でござりませぬ、本性でござりまする。あのお人様はあれだけのことで裏も表もござりませぬ」
と答えた。この酔態に裏も表もあって、酔態そのものが義秋の要求をくらます手だとすれば、朝倉義景もまんざら捨てた男でもないであろう。残念にも、これが素のままなのである。
「あれが、素か」
義秋も失望したらしい。
翌日、朝倉義景は、酒の気のぬけぬ顔を真青にしながら、一乗谷へ帰って行った。
「素か」
義秋は、あとで何度も笑った。もうしんぞ《・・・》こ《・》から朝倉義景を見限りはてたのであろう。
夕刻から、側近ばかりの評定をひらき、
「朝倉義景はあのざまだ。いつまでもこの朝倉領敦賀に居てよいものかどうか。居たところでなんの利もあるまい」
と気ぜわしい提案を出した。
ちなみにこの評定には、光秀が朝倉家の家来であるということで、座をはずさせられていた。
「もとより、朝倉義景ごときは頼りになりませぬ。最初からわかっていたところでございます」
といったのは、細川藤孝である。
「問題は朝倉ではござりませぬ。越前のむこうは加賀(本願寺領)、加賀のむこうは越後、その越後の上杉輝虎《うえすぎてるとら》(謙信)でございます」
藤孝の説くところは、明晰《めいせき》である。
越後の上杉氏こそ軍事力といい誠実さといい、頼りになる存在だが、いまのところ、甲斐の武田氏と川中島を戦場にいく度となく大合戦をくりかえし、上洛《じょうらく》どころのさわぎではない。武田氏をほろぼすか、講和を遂げるか、いずれかのかたちで事がおさまり次第、義秋を奉じて上洛するということは、輝虎が何度も言ってよこしている。
いざ上杉上洛となれば、越前朝倉氏はとこ《・・》ろてん《・・・》のように後ろから押し出され、物理的にその先鋒《せんぽう》として上洛せざるを得ないだろう。
「その時がまだ至りませぬ。時をお待ちあそばすことでございます。お待ちあそばすには、この敦賀金ケ崎城が、なによりの要害ではありませぬか」
「上杉と武田の戦いはいつ終わるのだ。まるで果てしもないではないか。そのような甲越《こうえつ》の騒乱を、この敦賀で待てというのか。待つうちに義栄《よしひで》(三好・松永がかついでいる将軍候補者)が将軍の位についてしまう」
「しかし」
細川藤孝は、絶句した。
(それしかないではないか。待つ、待ちつづける、それ以外にこの無力な将軍後継者にどういう手があるのだろう)
藤孝はおもった。実のところ藤孝は、かれ自身が世間にひっぱり出してきたこの義秋という僧侶《そうりょ》あがりの貴人が、あまりにも軽躁《けいそう》な性格であることに多少、いやけがさしはじめている。が、それでも義秋をかつぎあげてゆかねばならないとも観念していた。藤孝は幕臣なのである。それ以外に、どういう道もない、と、藤孝は臍《ほぞ》をきめていた。
評定は、一日でおわったわけではない。
金ケ崎城の奥の一室で、何日も、繰りかえし繰りかえしつづけられた。その間、光秀は室内に入れてもらえなかった。
「決して疎《うと》んずるわけではない」
と、藤孝は気の毒そうにいった。議題が議題だけに朝倉家の悪口も出るのだ。光秀が同席しては光秀自身もつらかろうし、他の者も思うままの発言ができない、という理由を、光秀に語ってきかせた。
「わかっている」
光秀はわざと明るく笑い、相手に気を使わせまいとしたが、内心は憂鬱《ゆううつ》であった。除《の》け者のさびしさもある。
(なにもかも、朝倉義景の優柔不断の性格、不決断が、わしの立場を卑小にしてしまっている)
光秀も、じっとしていたわけではない。敦賀と一乗谷のあいだを往復しては、朝倉義景やその老臣に、上洛進発の決意をうながしてはみた。
そのつど、朝倉家の態度は、
「気狂《きちが》いじみた妄想《もうそう》よ。このちっぽけな越前朝倉家が、畿《き》内《ない》(近畿)をおさえる三好・松永に対抗できると思うか。いやさ、京にたどりつくまで、近江《おうみ》で木《こっ》端微《ぱみ》塵《じん》の敗亡をとげてしまうのがおちだ」
ということであった。
が、朝倉家も、
「上杉が動けば動く」
という逃げ口上はもっていた。日本最強の軍団である上杉氏さえ動けば、その征《ゆ》くところ群小大名はあらそって味方に参じ、京都での合戦は勝利にきまっている。
(その上杉が、動けぬのだ。武田信玄に食いつかれている以上、動けるのは十年さきか、二十年さきか、めど《・・》もつかぬことだ)
とすれば朝倉氏は、近い将来にとうてい京へ出ることは絶対ない、といえる。同時に朝倉氏に頼っている以上、足利義秋は将軍になれる見込みはまずない。義秋が将軍になれぬとすれば、それにわが身の将来を託している光秀は、志を天下に展《の》べる機会はもはや訪れて来ぬ、ということになる。
(しかも自分は老いてゆく。来年は数えて四十になる身ではないか)
一乗谷と敦賀との間の山路を往復しつつ、光秀のあせりは日に高まるようであった。
そうしたある日、光秀は、一乗谷の屋敷の一室に妻のお槙《まき》と弥平次光春をよび、
「生涯《しょうがい》の決意をのべたい」
と言い、障子のそとに人はおらぬか、と弥平次に念を入れさせ、静かに語りはじめた。
語りながら、自分の気持を整理する、という様子である。
「朝倉家はだめだ」
と、まず光秀は言い、右の理由をのべ、この朝倉家の下にいてはついに自分は埋《うも》れ木《ぎ》になってしまうであろうといった。
そのあと、しばらくだまった。その沈黙に堪えかねたのか、若い弥平次光春は、光秀の気持をそそるようにいった。
「尾張の上総介《かずさのすけ》(信長)殿は、いまや東海道を制し、美濃を略取し、年若ながらも古今の名将のように思われまするな」
「そちは、信長がすきか」
「好きでございます。まだ年若でありますせいか、尾張・織田・信長などの言葉をきくと目の前に光彩がかがやくような思いがいたしまする」
「申しておく」
光秀は、暗鬱《あんうつ》な表情でいった。
「わしは、信長がきらいだ。わしにしてもし信長がすきなれば、事は早い。わしは織田家の奥方にとって従兄でもあり、いわば織田家と姻戚《いんせき》の身である。いつなりとも身を寄せさえすれば大禄《たいろく》でかかえられるであろう。にもかかわらず、つねに織田家を避けて今日まできたのは、かの信長とは肌《はだ》合《あ》いがあわぬからだ」
光秀は、さらにいった。
「弥平次、いま信長こそ名将と申したな。しかしこの光秀の目からみれば、どうみても大した人物のようにも思えぬ。いまここにこの光秀に三千の兵があれば、信長などおそるるに足らぬ」
が、声を落した。
表情はいよいよ暗い。心中、逆《さから》うものがあるのを無理に押し殺そうとするような口調で、
「その信長に」
と、光秀はいった。
「わしは仕えようと思う。朝倉義景にくらべれば信長は巍《ぎ》然《ぜん》たる英雄児である。良き鳥は良き樹《き》をえらぶと古語にもある。織田家は良き樹とはおもわぬが、しかし朝倉家にくらべれば亭々《ていてい》として天にそびえたつ巨樹になるであろうことはまちがいない」
しばらくだまり、やがて、
「わしの決意とは、そのことだ」
と、胃の腑《ふ》のものをどっと吐きだすような口調でいった。
(お苦しげな)
弥平次光春は、光秀のその様子に同情を覚えたが、それとはべつに身のうちに湧《わ》きあがってくる明るい感動をおさえきれない。信長という存在は、なにかしら若者の気持を昂奮《こうふん》せしめるような、明日への希望といった華やかな印象がある。
「殿、ご決意、めでたく存じまする」
と思わずさけび、つづけて、
「つて《・・》はあるのでございますか」
と、おさえきれぬ高声でいった。
「いくらでもある。奥方の濃姫様に手紙をさしあげてもよいし、旧知の美濃人猪《いの》子《こ》兵助を通してもよい。しかしそのような手は、わしは用いぬ」
「と申されますのは?」
「左様な伝手《つて》では、身上が小さくなる。最初から一手の大将をつとめたい。一手の大将でなければ大功を望めず、大功を樹《た》てねば天下を睥睨《へいげい》する存在にはなれぬ」
「しかし最初から一手の大将とは」
「なれるのだ」
光秀は、この点には自信がある。信長が人材の評価に天才的な眼力をもっていることも光秀は知っているし、また餓《う》えた者が食を求めるように人材を求めていることも知っている。
「だから」
と、光秀はいった。
足利義秋の頼りゆくさきを、織田家に決定させるのである。織田家はいま現在ではすぐの上洛はむりだが、その成長の速さからみれば、上杉氏の動くのを待つより、より早く上洛を実現するであろう。
いまのところ足利義秋の幕《ばつ》下《か》では、織田を頼ることに積極的に反対しているのは、この光秀だけである。その光秀が、信長コースに一転すれば、義秋の幕下は義秋をふくめて織田依頼に急傾斜するだろう。
その織田工作のために、光秀は、足利義秋推薦の将として織田家へゆく。
推薦人は、足利義秋なのである。
「信長は、将来、将軍を擁して天下に号令しようとしている。その将軍後継者から派遣されてきた将、ということになれば、当然、粗略にはあつかわぬ。粗略どころか、黄金をあつかうようにしてあつかうだろう」
語りながら、光秀の肚《はら》はきまり、方寸もきまった。
あとは、義秋を説くだけである。が、物欲しく説こうとはしない。
その機会を待った。