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国盗り物語119

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:退却 太陽が、光秀の背にある。山上の朝倉軍からみれば、退却してゆく織田軍は絶好の射撃目標だったろう。(ひどい戦さになった
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退却

 太陽が、光秀の背にある。
山上の朝倉軍からみれば、退却してゆく織田軍は絶好の射撃目標だったろう。
(ひどい戦さになったものよ)
手綱をひきしめひきしめ、光秀はおもった。坂がけわしくなっている。坂道に岩の骨が露《あらわ》れ、馬の蹄《ひづめ》を立てにくい。
陽《ひ》がのぼるにつれて、兜《かぶと》が灼《や》けはじめた。
「いったい、どこまで退くのでござりましょう」
と、弥平次光春がきいた。退却戦というのはどこか防戦しやすい場所までくれば踏みとどまるのが普通なのだ。弥平次はその退却終止点をきいたのである。
「そんなものがあるかよ」
光秀は、あごに滴《したた》る汗を、籠手《こて》で拭《ぬぐ》った。籠手の鉄片が、あごの皮膚を灼いた。
「あるかよ、とおおせられますのは?」
「ない、ということだ。よくよく考えてみれば、われらが殿ほど風変りなお人はない」
「とは?」
「殿は、はろけくも京までお逃げあそばすのだ」
「この越前から?」
「そうよ、この越前からよ」
光秀は、信長の思考法というものが、まったく解《げ》せない。戦術家としての発想が、である。
(おれなら、もっとちがう戦さをする)
と思うのだ。
なるほど信長は神のごとく疾《はや》い。たったいま京にいたかと思うと、日本海に面した越前の野に舞いおりたかのごとくやってくるのである。
それはいい。それなればこそ、朝倉の支城である手筒城、金ケ崎城は、一日二日の間で陥《お》ちた。城がこうも早く陥ちる例というのは古今まれなことだ。
ところが、北近江の浅井氏が寝返った。織田軍の後方を遮断《しゃだん》し、信長を狭い敦賀の野にとじこめ、朝倉軍とともに包囲殲滅しようという挙に出た。みごとな戦術といえた。
なぜならば、信長とその麾下《きか》数万の軍勢のひしめいている敦賀平野というのは、三方は山壁にかこまれ、前面は海である。そこに数万の織田軍がひしめいた状態は、ちょうどざ《・》る《・》に魚を盛りあげたようなかっこうで、みなごろしにするにはこれほど絶好な地理的条件はない。
信長は自分の危地に気づいた。
気づくと同時に消えたのである。味方をすて、単騎で消えた。
しかも京へ。
その退路距離のながさは、これまた古今未《み》曾有《ぞう》であろう。敦賀平野に舞いおりたあざやかさもさることながら、その逃げっぷりの徹底している点でも、常人ではない。
(だから、変わっている)
光秀はおもった。普通の戦術家なら、こうはやらない。弥平次光春のいうように、戦場をいったん離脱し、適当な場所で防戦し、小あたりにあたって敵の出ぐあいを見、弱しとみれば逆襲し、強しとみればさらにしりぞく、その芸が巧《こう》緻《ち》であればあるほど名将といえるわけだ。
(おれならばそうする)
光秀はおもったが、しかし信長のやり方に対して自信があるわけではない。あるいは信長のやり方は戦術上の既成概念を破っているだけに、天才的といえるかもしれない。
(思いたくはないが、そうかもしれぬ)
敦賀平野で後方の浅井氏の寝返りを知ったときに信長は、
(この遠征、やめた)
と、とっさに決心した。戦おうと思えばなんとか押しつ押されつして首数稼《くびかずかせ》ぎの戦闘はできるが、信長という男はそういう助平ったらしい未練のない男らしい。一戦もまじえずに逃げた。
戦略的にいえば、もともと京都に軍団を集結していて越前(福井県)の朝倉を奇襲するなどは無理の無理である。
ただし、無理をまげて可能性を見《み》出《いだ》す道は絶無とはいえない。あればこそ信長はやった。その可能性は、ただ一つのかぼそい条件でささえられていた。北近江の浅井氏が友軍であるということだ。浅井氏は積極的に戦闘に参加こそしないが、織田軍の領内通過をゆるし、態度は予想どおり友《ゆう》誼《ぎ》的であった。だから浅井氏は後方の脅威にはならない。
さればこそ信長は、京都からはるばる越前を奇襲するという奇略に踏みきった。この奇略の成功は、絹糸のようなかぼそいただひとすじの条件でささえられていた。
「浅井氏は裏切りをせぬ」という条件であった。
が、その条件は崩れた。
条件が崩れても、すでに行動をおこしてしまった以上、普通は未練がのこるものだ。げんに勝ちいくさである。越前領の一部をたった二日で占領し、城を二つも陥《おと》した。普通ならばこの戦果とすでに行動してしまった体温の熱っぽさにひきずられて次々と行動を重ねるにちがいない。
(普通なら、そうする)
光秀はおもった。そして普通ならば、その行動を積みかさねればかさねるほど裏目々々と出て没落に身をころがしてゆくものだ。
(左様、裏目々々と出る。普通ならばそう出る。そうは出さぬのが芸というものだ。おれならばこういう場面でこそ芸を発揮する)
が、信長は勝負をやめた。
とっさに逃げたのである。逃げれば無傷であり、一戦もまじえぬ以上「負けた」という噂《うわさ》を天下にふりまかずに済む。いまの時期の信長にとっては、
——越前で負けた。
という悪評がすこしでもでれば、畿内であらたに味方になった地侍どもは織田家に加担していることを不安とし、動揺し、他の敵、たとえば摂津の本願寺を頼り去るだろう。その悪評が信長にはこわい。
(となると、この信長の煙のような身隠しと全軍の京への総退却は、諸葛孔明《しょかつこうめい》でさえ思いつかぬ芸の最大なるものかもしれぬな)
光秀は、いろいろと反芻《はんすう》した。
その間も、退却戦にいそがしい。
一町退《しりぞ》いては踏みとどまって鉄砲を後方へ乱射させ、さらに一町をしりぞく。このたくみさでは、織田軍の諸将のなかでも光秀ほどの芸達者はいなかったであろう。
芸達者、といえば家康もそうである。
この若い三《み》河《かわ》の国主は、同盟者の信長に置き捨てにされながらも不平さえいわない。
(三河殿もまた風変りな。——)
と光秀は、信長に対する目とはまたちがった目で、徳川家康という若者をみた。
(あほう《・・・》のように丸いお人だ)
とおもうのである。
置きざりにされるなどというひどい仕打ちを受けながら、家康が洩《も》らした感想といえば、
「ほ、弾正忠殿はもはやおられぬか」
ということだけであった。
家康は色白の脂肪質で、両眼がくるりとまるい。
顔が大きく足のみじかいその一見楽天的な感じのする肉体的条件も手伝って、その驚きようは、どちらかといえば好もしい滑稽《こっけい》さを伴った。
(いい若者だな)
光秀は、家康の背をみながら思った。人間窮地に立つと思わぬ弱点が出るものだが、この若者はそのうまれついての長者の風ぼう《・・》をすこしも崩さない。
山麓《さんろく》を駈《か》けおりて平野に出たあたりで、敵の追撃が激しくなった。
光秀は馬上で機敏に指揮をしたが、家康もこの点はかわらない。
家康のごときは追いすがってくる敵武者に対しみずから鞍壺《くらつぼ》の上で鉄砲をとり、何発か轟発《ごうはつ》した。
大将みずから鉄砲をとるということはこの当時の慣習にはないことだ。家康は好んでそうしたのではなく、そうせざるをえないほどに敵の追撃が激しかった。

家康と光秀の隊は、一団になって駈けた。
やがて敦賀金ケ崎城の柵《さく》が目の前にみえてきた。
この城はすすんで全軍の殿軍《しんがり》を買って出た木下藤吉郎がまもっているはずであった。
(あの男のすさまじい忠義ぶりよ)
光秀は悪意でなくそう思った。おそらく藤吉郎は大潮《おおしお》のような朝倉軍に呑《の》まれて死ぬであろう。
いや、たれもがそう思った。
思った証拠に、最後尾の家康・光秀が来るまでに、かずかずの美談が、この柵を通過する諸将によって作られた。
諸将は感動したのだ。信長および自分たちをぶじ退却させるために藤吉郎は死ぬのである。
「ご苦労でござる。ご武運をお祈り申す」
と諸将はみな馬からおり、柵の中にいる藤吉郎にむかって敬礼した。
それだけではない。
藤吉郎は、家来が二、三百といった程度の将校だから、戦力はあまりない。それをみかねて諸将が、三騎五騎七騎と、自分の家来のなかから最も役に立つ武者をえらんで藤吉郎に付け残して行った。それがいまの藤吉郎に対してはなによりの馳《ち》走《そう》であった。
やがて家康の軍および織田家の連絡将校である光秀の隊がやってきた。
「やあ三河殿、それに十兵衛殿」
と、藤吉郎は柵の中から叫んでいる。
「ご無事に京へ帰られませよ。御武運を祈りあげておりまするぞ」
陽気な声だが、場合が場合だけに、光秀には悲痛にきこえた。
その間も、坂をかけ落して追撃してくる朝倉勢はいよいよふえてきた。
家康・光秀はそれに相手にならざるをえない。ときには全軍反転して押しかえし、そのすきに退いてゆく。
その退却の支援を、藤吉郎は柵内からやってくれるのである。ありったけの鉄砲をならべて轟々と朝倉勢へ放った。
(これはありがたし)
光秀は、藤吉郎の処置をどれほどありがたく思ったことであろう。
家康も同様だったにちがいない。
ただ家康という男は、晩年のかれの印象とはちがい、三河の篤実《とくじつ》な農夫といった面があり、ひどく律《りち》義《ぎ》で、こぼれるほどの人の好さをもっていた。
「十兵衛殿、あれは捨ておけませぬな」
と家康は、弾雨のなかでいったのである。
「あれ《・・》とは?」
「木下殿のことでござるよ」
家康のいうのは藤吉郎をこの戦場に置きすてて自分たちだけが退却するに忍びないというのだ。
(自分こそ信長に置きすてられた男ではないか)
光秀はちらりと思った。家康はそのことを恨みがましく言わないばかりか、藤吉郎をさえ拾っていこうというのである。
「どうであろう、ともに城に入りませぬか」
「いかにも左様に」
と光秀も賛成した。
戦術的にもわるい方法ではない。捨て残された者がばらばらで逃げるよりも、三者力をあわせて一ツになって逃げるほうが、より損害はすくないであろう。
家康は、藤吉郎にその旨《むね》申し入れた。
柵内の藤吉郎はおどりあがってよろこび、
「かたじけなし」
と、家来に柵の戸をひらかせた。家康、光秀の隊はどっと入った。
このため防禦《ぼうぎょ》火力がふえた。
徳川、明智、木下の三隊の鉄砲隊は筒口をそろえて撃ちまくり、鉄肌《てつはだ》が熱くなると水桶《みずおけ》につっこんで冷やしては撃った。
むろん、射撃だけではない。
射撃のあいまに柵をひらいて突撃し、ときに敵を十町むこうに追いかえした。
この一戦は、
 信長一生の難儀たりしに、家康公の御加勢を被返候《かえされそうろう》て、秀吉が勢に御加り、御一戦の刻《とき》、御自身御鉄砲を取らせられ朝倉勢を御防ぎあそばさる。
 といったように、「東照軍鑑」をはじめ家康一代の記録には熱っぽく書かれている。徳川家としては忘れがたい体験だったのであろう。
藤吉郎秀吉にとっても、一代のうちの忘《ぼう》じがたい一日だった。星霜をへて秀吉が天下をとり、家康と和《わ》睦《ぼく》し、家康を上洛《じょうらく》せしめてはじめて主従の関係を結んだとき、秀吉は家康の手をとり、
「むかし金ケ崎の退口《のきぐち》で徳川殿にたすけられ九死に一生を得申した。あのときのこと、ゆめにも忘れてはおりませぬぞ」
といったほどである。
やがて、朝倉勢が遠のいた。
「いまぞ」
藤吉郎も家康、光秀も、同時にそうおもった。いまをおいて、柵をひらいて逃げだす機会はないと見、順次、部署によって退却を開始した。
半里も行軍するうちに、ふたたび朝倉勢が追いすがってきた。
そのつど、家康隊、秀吉隊、光秀隊が整然と動いて後方の敵と戦い、戦っては退き、ときに展開し、ときに駈け足の退却をした。もっとも困難といわれている退却戦で、この三隊ほどみごとにそれをやった隊はない。
先行している他の織田軍の諸隊のうち、士卒が四散してしまった者もある。隊形が崩れたために無用の死傷をおびただしく出したが、最後尾の三隊のみはほとんど無傷にちかかった。
やっと越前・若狭《わかさ》の国境にたどりついたときには日が暮れた。
この三隊は、途中先行諸隊の落《らく》伍《ご》者《しゃ》を収容しつつ闇中《あんちゅう》を進んでゆく。
「殿はごぶじか」
と藤吉郎は落伍者をひろうたびに毎度そのことをきいたが、たれも答えられる者がいなかった。
じつのところ、信長の一命がぶじだったことをこの三人が知ったのは、京にもどってからのことであった。
信長の逃げっぷりは、じつにかるがるとしたものであった。
敦賀の陣で、
——逃げる。
ときめたときには、とっさに具足をぬぎすてた。具足が重ければ馬の負担になる。京までの長途の退却行に馬がまず参るのだ。信長は小《こ》袖《そで》のみを着、その上に真っ白の薄羽織をはおって馬に乗った。
薄羽織には、蝶《ちょう》の紋所がついている。本来織田家は木瓜《もっこう》の紋である。木瓜を輪ぎりにしてその断面を図案化した紋だ。この蝶の華麗な紋はこの時期、信長がむやみに好んだ意匠で、このときの薄羽織の紋がそうだった。信長が馬を駈けさせると薄羽織が風にはためき、蝶がはたはたと動いた。
若狭境で家来がだいぶ追いついてきた。
なにしろ、道は山中にうねっている。琵琶《びわ》湖《こ》東岸の平野は浅井氏の領土であるため、わざわざ西岸の嶮《けん》路《ろ》をえらんだのだ。
惨澹《さんたん》たる退却行だった。
途中、敵味方さだかならぬ豪族が、城砦《じょうさい》をかまえて道をはばんでいる。
信長はまず若狭佐《さ》柿《かき》の城に立ち寄り、城主粟《あわ》屋《や》越中守を頼み、それに案内させてついで朽《くつ》木《き》谷《だに》に入った。
朽木谷の領主は朽木信濃守元綱である。
「いやさ、朽木谷城にはそれがしが参って説きましょう。かの城主の信濃守とはふるい知りあいでござる」
といって説得役を買って出たのは、たまたま信長の陣にいた松永弾正久秀であった。弾正はかつて将軍義輝を殺した悪名の高い男だが、このときはなんとしても信長の役に立ちたかったのであろう。
「もし朽木信濃守が異心をもちますならば、拙者はその場で刺し違えて死にまするまで」
と言いすてて朽木谷へ先行した。その後ろ姿を見て信長は、
「おれの運はまだ衰えぬとみえる」
と、ひとり高笑いした。
なぜといえば、松永弾正久秀ほどに利に敏感な男が、敗軍の将である信長のために一命を賭《か》けて朽木を説こうというのである。あの悪党の久秀に、この状態でなお見こまれている以上、まだまだ安心という意味で信長は笑った。
朽木氏は、ぶじ協力した。
信長が京へ駈けもどったのは四月三十日であった。その後ぞくぞくと織田軍は帰京し、最後の家康、秀吉、光秀が帰ったのは、信長よりはるかに遅れて、五月六日のことであった。
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