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国盗り物語118

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:敦賀 越前敦賀の平野に襲来した織田の大軍をみて、越前朝倉衆は、「天兵が舞いおりたか」と、仰天した。信長の突然の侵入におど
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敦賀

 越前敦賀の平野に襲来した織田の大軍をみて、越前朝倉衆は、
「天兵が舞いおりたか」
と、仰天した。
信長の突然の侵入におどろいたこともあるが、織田軍の軍装のまばゆいばかりの美しさに、
——天兵か。
とおどろいたのである。
越前朝倉は大国とはいえ、所詮《しょせん》は生産力にとぼしい北国であり、かつ太平洋岸の諸国よりも具足の進歩の点で遅れている。
その点、織田軍の本拠である尾張(愛知県)はおそらく日本第一の富裕地であるといっていいだろう。とくに信長の父の代になってから灌漑《かんがい》が進んで、寸尺も荒《こう》蕪《ぶ》の地はなく、かつ伊勢湾にむかってすさまじい勢いで干拓事業がすすんでいる。
それだけではなく、尾張は海路の交通の要衝で商業が大いに進み、現金の保有量の点で日本海岸の越前とはくらべものにならなかったであろう。
武具の華麗さに、越前兵が驚嘆したのもむりはない。
しかも主将の信長は、たれにもまして好みの派手やかな男である。
(なんと傾《かぶ》いたるお人か)
と、織田軍の一将である明智十兵衛光秀でさえ、信長の大将としての姿におどろいたくらいであった。傾《かぶ》く、とは、衣装の好みが正統的でなく、伊達《だて》でしゃれている、もしくは不良っぽい、という意味だ。
信長自身の軍装は、紺《こん》地《じ》に金襴《きんらん》の包具足《つつみぐそく》、頭には銀の星でおおった三枚兜《かぶと》、腰には黄金づくりの太刀をはき、馬は黒竜かとおもわれるような「利《り》刀黒《とうぐろ》」。
その馬まわりに、総大将のシルシとされる十本ノボリの大旗をひるがえさせ、旗の地はことごとく朽《くち》葉《ば》色《いろ》である。
その信長の親衛部隊は、まず足軽隊は弓、鉄砲、三間《さんげん》柄《え》の皆朱《かいしゅ》の槍《やり》が三百本、騎士隊はそろいの具足をつけた武者五百騎という華麗さだ。そろいの軍装、という着想は、この信長をもって最初とするであろう。
信長は音楽がわからない。
しかし絵画・工芸などの造形芸術については天才的な眼識をもっていた。そういう男なるがために、自分の軍隊の軍容については、それを芸術品のように思っていたのであろう。
手筒城などは、一瞬で落ちた。この織田軍の軍容をみただけで、朝倉兵の戦意は萎《な》えてしまったのにちがいない。
つぎは、敦賀平野の本城である金ケ崎城である。
攻撃にさきだち、信長は光秀をよび、
「そちは、金ケ崎をよう知っておるな」
といった。
知っている段ではない。光秀は朝倉家の旧臣である。その支城である金ケ崎城には将軍義昭の流《る》浪《ろう》当時、義昭も滞留し、その義昭を接待するために、しばしば越前一乗谷の首都から出かけて行って、この城に泊まったものだ。
「絵図を描け」
と、信長はいった。
光秀はやむなく紙をのべ、従軍の絵師からえのぐ《・・・》を借りてすばやく描いた。すばやさをつねに信長は要求した。
「おもしろい絵だ」
信長は、めずらしく声をたてて笑った。
金ケ崎城は、ほそい岬《みさき》を要塞《ようさい》化したものである。岬の根もとが、大手門になっている。堀は大手門の前に二重にあるのみで、城の三方は海であり、断崖《だんがい》であった。
その海には浪がえがかれ、二つ三つ、白帆さえ浮かんでいるのである。その白帆をかいた光秀の洒落《しゃれ》っ気《け》が、信長の気に入ったらしい。
「そちにすりゃ、旧主家を討つことになる。どんな気持だ」
と、信長は真顔できいた。
「別段の愛憎はござりませぬ。ただ侍としての武辺を立てることのみが存念でござりまする」
「憎くも可愛《かわ》ゆくもないとは、酢でもなく酒でもなく、水のような気持か」
「はい、水のような」
と、光秀はいわざるをえない。そんな心境などは、人間ありえぬではないか。光秀にとって越前の山河は流浪時代最後の思い出ふかいところであり、しかもこの期間、朝倉家の米塩《べいえん》をもらって妻子の口をやしなってきたのだ。
また旧知の人々も多い。
軍学をおしえた門人もいる。にがい思い出も多かったが、また陰に陽に光秀のためにかばってくれた朝倉家の老臣もいたことだ。ゆらい、越前人は情誼《じょうぎ》にあつい。
(かれらと戦場で遭いたくない)
という感情が敦賀平野に入った光秀の脳裏をつねに占めている。決して水のごとき心境ではない。
攻撃がはじまった。
光秀は、最前線に進出した。目の前の金ケ崎城の外柵《がいさく》に鉄砲をもたせかけてさんざんに撃ち出してくる。
織田軍はさすがに萎縮《いしゅく》し、全軍、遠撃ちに鉄砲を撃ったが、みな堀の手前で弾が落ちて一弾も敵にあたらない。
光秀は業《ごう》をにやして馬から降り、みずから鉄砲足軽五十人をひきい、
「鉄砲は敵の三十間、四十間の手前まで進まねば験《げん》のないものぞ」
と叱《しっ》咤《た》し、かれ自身も鉄砲をもち、草の上を駈《か》けて敵に近づき、
「鉄砲とはこうぞ」
と、二発撃って放った。
その勇気に鉄砲足軽が進出し、さらに他の隊の足軽も寄せに寄せはじめた。
となれば、火力において織田軍は絶対の優勢になった。
なにしろこの攻撃正面に出ている鉄砲だけで二千挺《ちょう》はあるであろう。それが、狭い金ケ崎城の柵と大手門、櫓《やぐら》に集中するのだ。小城は鉛弾の夕立をあびて息つくひまもない。
(妙なことがある)
攻撃指揮をとりながら、光秀は思った。城の東に、木ノ芽峠の高《たか》嶺《ね》が屏風《びょうぶ》のようによこたわっている。その屏風をなす山脈をこえてむこう側の越前本軍が支城の救援に来そうなものだが、敵本軍はいっこうにあらわれないのである。
(一乗谷はなにをしている)
光秀は、敵のことながらその作戦のまずさにいらだつ思いがした。奇妙な感情というべきだった。
(やはり、古巣への故旧の情というものだ。水のごとき心境ではない)
と、ひそかにおもった。
城は一日で落ちた。
守将朝倉景恒《かげつね》は、一乗谷の本軍の救援のないことにたまりかね、信長に開城降伏を申し入れてきたのである。
信長はゆるした。信長がここで殲滅《せんめつ》主義をとらなかったのは、越前攻略の根拠地として一刻も早くこの金ケ崎城がほしかったのである。
降将朝倉景恒は敗兵をひきいて木ノ芽峠の東へ去った。
(なんともろい)
と、光秀はその夜、陣中でこの北方の老大国のふがいなさに腹が立った。
「明智殿は、もと朝倉家におられたな」
と、この陣中、他の将校がよく話しかけてくる。もし朝倉勢が強ければ、
「居申した」
と、光秀は胸を張って答えることができたであろう。武門は強ければいよいよ強いほうがよく、そこにかつて士籍を置いたという光秀の履歴も冴《さ》えてくるのである。しかしこの場合、逆であった。
織田方の探索の報告では、越前の首都一乗谷ではこの事変でさすがに色めき立っているという話だが、当の総大将の朝倉義景《よしかげ》はほとんどなんの反応も示さず、
「どうであろう、敦賀くんだりまでわしみずからが馬を出さねばならぬか」
と、老臣たちにきいたという。自分自身出馬するのが、どうも億劫《おっくう》であるようだった。
かれを補佐する老臣の質がよくない。一族門閥でかため、たれひとり器量のある男がいないことは、光秀はよく知っていた。知っているばかりでなく光秀の朝倉家勤《ごん》仕《し》の当時、新参者のかれはその門閥の壁のあつさにほとほと泣かされた苦い思い出がある。
「なにを申される」
と、義景をしかりつける老人もいない。ただ「総大将の御《お》馬《うま》出《だ》しは故例でござる。故例どおりなされよ」という者があり、義景はそれが「故例」という儀式であるかのような気持でやむなく出馬した。
が、行軍の途中でさまざまの理由をつけて一乗谷にひきかえしてしまった。
全軍の士気は、一時に堕《お》ちた。
救援軍の指揮は一族の朝倉景鏡《かげます》にゆだねられたが、景鏡もみずから火中の栗《くり》をひろう気がせず、府中(武《たけ》生《ふ》)までゆき、そこに軍をとどめて動かなくなった。
そんな情報がすでに織田軍の野戦陣地にとどいており、光秀もそれを聞き知っている。
金ケ崎城が開城した夜、光秀は信長の本営によばれ、信長自身から、
「そちは、木ノ芽峠から以東一乗谷までの地理にあかるい。先鋒《せんぽう》の三河守殿をたすけよ」
と、命ぜられた。
越前の本《ほん》野《や》に乱入するための戦闘行軍の部署割りが、先頭ときまったのである。光秀は自分の武運のよさによろこび、
「ありがたき仕合せに存じまする」
と御礼を申しのべた。
先鋒軍は、織田家の同盟軍である徳川家康である。家康は三河兵五千をひきいていた。
その三河の友軍に同行して光秀は全軍のまっさきを進むことができるのだ。危険が多いかわり、功名を樹《た》てる機会も無数にあるであろう。
「おうらやましいことだ」
と、そんな表情で祝意をのべてくれた男がいる。
光秀は忘れもしない、日は命令を受けた翌朝で、場所は本営の柵のそばの根あがり松のあたりである。朝から暑い日で、天が染めたように青かった。
「ああ、藤吉郎殿か」
と、背の高い光秀は、ほとんど見おろすような近さで、小男の木下藤吉郎とむかいあった。
小男だが、藤吉郎は織田家の将校としての容儀はわるくはない。洒落《しゃれ》た紗《しゃ》の陣羽織を紺糸具足の上からはおり、その紺が紗をとおして透けてみえて、いかにも涼しげだった。
「いや、ごぞんじのとおり、私は多少越前の山河にあかるい。殿はそれをお買いくだされたのであろう」
「木ノ芽峠をこえて一乗谷まで、道のりはどれほどある」
「十六里」
「その間、城かずはいかほど」
「砦《とりで》まであわせると、十六城か」
「一里に一城とは、これまた堅固な国よの」
藤吉郎は首をふり、
「そのなかでめぼしい城は」
「府中城じゃな」
と言い、光秀はあることを察した。藤吉郎は光秀からできるだけの兵要《へいよう》地誌《ちし》を仕入れておき、自分の功名の場所をあらかじめ予定しておこうとしているらしい。
(抜けめのない心掛けだ)
と、内心、舌を巻いた。武士たる者で功名を心掛けぬ者はないが、ほとんどの武士は、戦場の成り行きのなかで成り行きにまかせ、いい功名のたね《・・》をさがそうとする。
が、藤吉郎はちがっていた。信長の戦略をあらかじめ想定し、その想定のなかで積極的に自分の功名の場所を創《つく》りだそうとするたちの男らしい。
「そういうことか」
と、光秀は、訊《き》いてみた。
藤吉郎は陽気に笑い、
「さすがは十兵衛殿、よくぞ見ぬかれた。府中城のことを教えてくだされ」
と、掌《て》をあわすまねをした。そんなふざけたまねをしても、この男の場合、ちっとも卑《いや》しい感じがしないのである。
「では、それにおしゃがみなされ」
と、光秀は自分もしゃがみ、地面に折れ釘《くぎ》で図を描きはじめた。
「ここが本丸、これが二ノ丸」
と、描きつづけてゆくうちに、精密そのものの城郭図が地面に現出して行った。
(この男、よくここまで精《くわ》しく)
と、藤吉郎は眉《まゆ》をあげて光秀をみた。瓦《かわら》の数までおぼえているのではあるまいかと思われるほどの記憶力である。
が、藤吉郎は、じつのところ光秀の説明などはあまりきいていない。このすぐれてかん《・・》のいい下郎あがりの将校は、すでに府中城の城攻めの場合での自分の打ち出すべき角度と行動がひらめいたようだった。
「いや、ありがたし」
藤吉郎は立ちあがり「それにしても徳川殿とともに先陣というのはおうらやましい。銭《ぜに》で買いたいような御運だ」と言いのこして、立ち去った。
藤吉郎に別れたあと、光秀は自分の隊と小《こ》荷駄《にだ》をまとめて敦賀を出発した。
すでに先鋒の徳川軍は、木ノ芽峠のふもとの深山寺という山村のあたりまで前進しているのである。光秀は日のあるうちに追いつかなければならなかった。
烈日の下を、明智隊は急行軍した。坂はけわしく、ときに馬さえ蹄《ひずめ》をすべらせて横倒しになり、難渋をきわめた。
四里の山坂を行軍して新保という部落の下までついたとき、徳川軍が休息していた。
光秀はただちに馬を降り、徒歩で三河兵の群れをかきわけながら家康の床几《しょうぎ》をさがし、鄭重《ていちょう》にあいさつした。
「これは明智殿」
家康は、ゆっくりとした物の言い方で、光秀以上に丁寧に会釈《えしゃく》した。
家康は、この元《げん》亀《き》元年で満二十八になる。下ぶくれで目のまるい童顔のもちぬしで、この若者の物腰の鄭重さは織田家の将校のあいだでも評判のものだった。光秀のような織田家の中級将校に対しても、この三河の国主はおろそかな態度を示さない。
「道案内を相つとめます」
と、光秀がいうと、家康は肉のあつい小ぶりな掌をふり、
「もったいない、明智殿ともあろう御仁に。しかし拙者は越前は不案内ゆえ、いろいろと御指図をおねがい申す」
といった。家康にすれば、信長派遣の連絡将校に、信長に対する態度とよく似たへりくだりようで接するのである。
この夜は、新保付近で宿営した。
翌日、光秀は敵情偵察《ていさつ》をも兼ねて先発し、峠の上までゆき、そこで休止した。
(このさきは、あぶない)
とみたのである。すでに峠のむこうには朝倉の小部隊がしきりと出没しているようであった。
「今夜は、このあたりで宿営するがよろしかろう」
家康にもすすめ、さらに物見を出して前方を偵察した。
その二十八日夜、織田軍は、この軍団がかつて経験したことがない異変に見舞われた。これまで織田家の同盟関係にあった北近江の浅井氏三十九万石がにわかに越前朝倉氏に呼応し、織田軍の退路を断ち、敦賀にとじこめ、包囲殲滅《せんめつ》をしようという挙に出た。敦賀の陣中でこの変報をきいた信長は、
「まさか浅井が。——」
と、最初は信じられぬ面持《おももち》だった。浅井家の若い当主長政に、信長は自分の妹のお市をとつがせているのである。長政は篤実《とくじつ》な性格の男で、裏切りをするような男ではない。
が、すぐ事実とわかった。
そのとき信長はもはや敦賀にいなかった。
神のような早わざである。この遁走《とんそう》を全軍団に告げたわけではなく、わずかに後を追う馬廻りの人数をひきいたまま闇《やみ》にまぎれて脱出し、浅井領ではない琵琶湖西岸の山岳地帯を縫って京都への遁走を開始した。
置きざりにされた軍団はつぎつぎにこの総《そう》帥《すい》蒸発の異変を知り、退却部署もそこそこに敦賀を去りはじめた。
あけ方になって大半の織田軍が、せまい敦賀平野から消えた。
知らぬのは、最前線まで出ている光秀と家康である。
その徳川軍のもとに、なんと木下藤吉郎から伝令がきてこの変事を報《し》らせた。
「ほ、弾正忠殿が早や。——」
と、家康は目をまるくし、すぐ退却部署をととのえ、坂をくだりはじめた。
光秀は、最後尾である。
藤吉郎の伝令は、親切にも光秀のもとにもきた。この伝令は藤吉郎の好意によるもので、信長の命令によるものではない。
「感謝していた、と伝えよ」
と、光秀は馬上で会釈し、
「さてその藤吉郎殿はどこにおられるか」
と、きいた。
「金ケ崎城に」
と、伝令は答えた。なんと藤吉郎はこの退却戦の殿《しんがり》を買って出て、金ケ崎城の守備についたという。全軍が退却したあとはじめて藤吉郎隊は退却するのだが、そのときはおそらく朝倉・浅井の兵が満ちみちて、待ちうけている運命は死しかないであろう。
(あの男、妙な役目を買って出たものだ)
光秀は、おもった。
藤吉郎という功名好きな男は、ついに九割九分の死を賭《か》けて、あとの一《いち》分《ぶ》の功名を買おうとするらしかった。
(あの男は死ぬだろう)
光秀は馬をいそがせた。すでに山上に朝倉の追撃部隊があらわれはじめているのである。
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