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国盗り物語130

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:信玄「天下の士庶、ことごとく戦慄《せんりつ》している」と、光秀は琵琶湖畔の坂本城を築城しつつ、そのことを考えつづけていた
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信玄

「天下の士庶、ことごとく戦慄《せんりつ》している」
と、光秀は琵琶湖畔の坂本城を築城しつつ、そのことを考えつづけていた。あす、たれが天下の支配者になるのかわからない。何者がなるかということによって、京都の貴族をはじめ、諸国の大名、豪族、武者、足軽、果ては僧侶《そうりょ》や神主にいたるまでの個々の運命が一変するのである。
「信長にはその幸運を与えぬ」
という立場の者が人数でいえば圧倒的に多い。かれらはそのために智謀のかぎりをつくして謀略し、死力をつくして抗戦している。信長がもし世の支配者になれば、かれらはほろび去るしかない。
その反織田同盟のなかで、信長と直接戦闘をまじえているものは、
摂津石山の本願寺とその全国の門徒
越前の朝倉義景《よしかげ》
近江《おうみ》北部の浅井長政
美濃で所領をうしなって牢人《ろうにん》している斎藤竜興《たつおき》とその徒党
近江南部で信長のために覆滅された六角(佐々木)承禎《じょうてい》とその徒党
三好党
であった。
さらにかれらを外援者として支援してきているのが、東は甲斐の武田信玄であり、西は瀬戸内海の制海権をおさえる中国の毛利氏である。しかもそれらの背後にあって秘密の謀主になっているのは、京の足利将軍義昭であった。
この連中が、勝利への希望としてほとんどひとすじに期待をつないでいたのは、甲斐の武田信玄であった。
武田信玄と、かれが精練に精練をかさねたその甲州軍団の強さは、かろうじて越後の上杉謙信をのぞいては日本史上最強のものであることは、京の図子《ずし》(袋小路《ふくろこうじ》)で遊ぶ三歳の児童でさえ知っている。
「信玄が起《た》てば」
というのが、もはや、反織田同盟の者たちにとっては、悲鳴をあげたいほどの希望であり期待であった。信玄の武力はそれほど強烈であり、さらに反織田同盟者にとってもっとも魅力のあることは、武田信玄という人物の人間としての思想が、前世紀にうまれてもいささかも不自由せぬほどに古いことであった。信玄はたとえば叡山という古典的権威を尊重し、尊重するのあまり、金を出して権大僧正《ごんだいそうじょう》の僧位を買い、みずから緋《ひ》の衣を着てよろこんだ。さらに叡山が信長に焼きはらわれたとき、信玄のもとに泣きついてきた僧に対し、
「されば叡山を甲斐に引越しさせよ」
と不気味なほどの肩入れの仕方をした。叡山の僧はさすがにこの勧誘には有難迷惑《ありがためいわく》を感じ、ことわりはした。
信玄の頭脳は、その軍隊指導と経済行政にかけては一点の非合理もみとめぬほどに科学的感覚に満ちたものだったが、その社会的思想にいたっては、源平以来の最も古い家柄《いえがら》の当主らしく、いかにも保守的であった。その保守性が、かれの支持者をよろこばせた。反織田同盟の面々は、まず前時代の亡霊のような室町将軍であり、叡山、本願寺であり、しかも武将たちも、ふるい室町体制からの旧家を誇る者が多い。
「武田信玄ならば、古き権威、階級を温存し神仏を崇《あが》めてくれるであろう」
という期待が、いかにも大きい。
信玄が、その天下の保守勢力からそれほどまでも期待されていながら起つか起つかの気配のみで容易に起たなかったのは、背後に関八州の王者ともいうべき小田原の北条氏がいたからである。当主北条氏康《うじやす》は家祖早雲を凌《しの》ぐといわれるほどの人物で、越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄が何度か侵略をかさねてきたが、氏康はそのつど、政略と戦闘でかれらの野望をくじいてきた。その氏康が、織田信長の叡山焼き打ちの翌月、病死した。
子の氏政は凡庸である。
武田信玄はさっそく、かれのもっとも得意とした外交策をもちいてこの氏政をあざやかに籠絡《ろうらく》し、同盟を結び、これによって関東からの宿命的な脅威を一時に去らしめた。
信玄は、安《あん》堵《ど》した。
「西上」
が、信玄にとって可能になった。なお北方の越後には上杉謙信がいるが、謙信には不幸な事態があった。北陸一円に本願寺一《いっ》揆《き》が猖《しょう》獗《けつ》し、このためとうてい信玄の領国を侵すような余裕はない。
信玄は動いた。
当然、正面の敵は、遠江《とおとうみ》と三河を版図とする家康である。家康はこのころ彼のひさしい根拠地であった三河の岡崎城を出、信玄に対してより近い遠州浜松城に入り、そこを策源地としていた。
「浜松は敵に近すぎる。もとの岡崎城に本営を後退されよ」
と岐阜の信長はわざわざ使者を送って忠告したが、家康は、
「忝《かたじけ》のうござる。しかし存念がござれば」
と、その忠告を容《い》れなかった。信長の忠告は、戦術的には妥当だが、しかし家康の環境状態はそれをゆるさなかったのである。
徳川勢といっても、譜代と国衆(土着豪族)とよばれる外《と》様《ざま》がいる。その遠江や三河における国衆が、
——もはや、家康のほろびは近い。
とみて、信玄に寝返りはじめたのである。
その形勢下で家康が本城後退の弱気策をとれば、動揺はさらに大きくなり、足もとが崩れ去ることになろう。家康としては、いかに敗北がせまっているとはいえ、浜松城頭にひるがえっている葵紋《あおいもん》の白旗を後退させることはできなかった。
元亀三年晩秋の吉日、信玄は甲府を出発した。その動員した軍勢は、二万七千である。遠州における徳川方の城をつぎつぎに陥《おと》し、一城陥《お》ちるごとにその噂《うわさ》が天下にとび、それが信長の声望にひびき、とくに京都における世論は信長に対してしだいに冷淡になってきた。 
この間、光秀がその守備を担当している南近江地方(北近江は木下藤吉郎)では、本願寺門徒や六角氏の残党などが勢いを得てそこここで一揆をおこし、村を焼き、野を荒し、手に負えぬ騒ぎになった。光秀はその間、その討伐のために日夜駈《か》けまわった。
岐阜にいる信長はこの間、
(家康は、勝てまい)
と見た。むろん、信長自身がその主力をあげて東海に進出し、信玄と決戦したところで、勝利はおぼつかない。まして信長の状況は麾《き》下《か》の軍が摂津、山城、近江、伊勢の各戦線に散在し、しかもそれらの各戦線はどの一つも撤兵させる余裕がなかったため、東方で信玄と決戦することなどは空想すらできなかった。
(家康は、捨て殺しじゃ)
と、信長は計算し、ほとんど金属製のような心でそれを思った。家康は信長のもっとも古い、しかも唯一《ゆいいつ》の——同盟者である。信長に対してはかつて毛ほどの異心もみせず、律義に戦ってきた。
しかも、こんどの対信玄戦でもそうであった。家康がその気になれば信玄に寝返り、武田軍の先鋒《せんぽう》となって信長を攻めることさえできるのである。彼が武田軍の先鋒となれば、武田軍はついに京にのぼり、信玄は天下を統一することができたであろう。
が、ことし三十歳になる下ぶくれ長者顔をもった男は、このとき、戦国期を通じて稀有《けう》といっていいほどの律義さを発揮した。信長との同盟を守り、信玄と戦い、自滅を覚悟した。ほとんど信じられぬほどのふしぎな誠実さであった。この若年のころの律義者が、晩年、まるで人変りしたようにまったく逆の評価を受けるにいたるが、それでも豊臣《とよとみ》家の諸侯が秀吉の死後、
——徳川殿は律義におわす。約束をお破りになったことがない。われら徳川殿に加担してもその功には酬《むく》いてくださるであろう。
と信じ、この男を押し立てて関ケ原で豊臣政府軍を破り、ついには天下の主に押しあげてしまった。家康のその個性を天下に印象づけたのは、この時期のこの男の行動にあるといっていい。
信長は、別の立場をとった。
織田方の援軍三千を送るとき、その指揮官の平手汎秀《ひろひで》、佐久間信盛、滝川一益《かずます》をひそかによび、
「守勢々々に立て。進んで手を出すな」
といった。信長にすれば、進んで戦ったところで、負けることは負ける以上、士卒の損害だけがむだであった。三千の援兵派遣は、家康への義理立てだけにすぎない。
信長には、別の構想がある。信玄の来襲をきいて信長はにわかに越後の上杉謙信と同盟を結んだが、謙信を使って、家康敗亡後、何等かのかたちの決戦をするか、それとも、外交の巧《こう》緻《ち》をつくして信玄との間に不戦状態を成立させるか(もはや魔術といっていいほど不可能なことだが)、どちらかの主題を懸命に考えていた。しかし妙案は浮かばない。
その段階で、武田信玄は家康の版図に悠々《ゆうゆう》進入し、家康のもっとも重要な城の一つである二俣城《ふたまたじょう》を陥し、さらに家康の本貫《ほんがん》の地である三河に入ろうとした。
信玄の眼中、もはや家康はない。
という行動を、信玄はとった。その証拠に、信玄は家康の居城である浜松城を黙殺し、軍勢をも送らず、浜松より二十キロ北方の道路を利用し、ただひたすらに西へ行軍しようとしている。信玄の目的は京にあり、その途中にいる家康と戦闘をまじえるなどは、信玄にとって時間の浪費になるだけであった。
(馬鹿《ばか》にされた——)
と、家康は、複雑な気持をあじわったことであろう。しかし沈黙さえしていればあのおそるべき甲州の巨獣群はひたひたと西へ去ってゆくだけのことである。
「どうするか」
という軍議を、家康は浜松城でひらいた。席上、信長派遣の三人の将もまじっていた。その三人をはじめ家康手飼いの諸将をふくめてすべてが、
「不戦」
を主張した。この浜松城に息をひそめているかぎり、道をいそぐ巨獣群は黙殺してくれるのである。戦って百に一つも勝てる見込みがあれば挑戦《ちょうせん》ということもありうるであろう。が、それが夢想にちかいかぎり、この場は息を殺しているしかない。
が、意外なことがおこった。席上、ただ一人の男が、狂気したように挑戦案を主張しはじめたのである。
家康であった。
徳川家の諸将も、織田家の将校も唖《あ》然《ぜん》とした。もともと思慮ぶかい、物事に入念すぎる性格の家康としてはありうべからざることだった。
(気が、狂われたか)
と、家康の譜代の老臣たちは思った。事実家康はこの苛《か》酷《こく》すぎる運命を前にして、平静を失っていたことは確かであった。そのいちいち吐く理屈はもはや戦術論ではなく、
「いまや敵が領内を通ってゆく。いかに武田が優勢であれ、その蹂躪《じゅうりん》を傍観して為《な》すところがなければ、世にも人にも臆病者《おくびょうもの》とあざけられ、もはやこの世間で人がましく立つことができない」
という意味の感情論であった。が、よく考えてみれば単に感情論ではない。家康が死を賭《と》して一《いっ》矢《し》だけでも酬いようとしたのは、かれが自分の今後の声望を考えてのことであった。勇者の声望があれば今後政戦ともに仕事がしやすいが、臆病といわれればいかに智略をもっていても人は軽侮し、その智略をほどこすことさえできない。
(死をもって今後の声望を購《あがな》おう)
と、家康はおもった。この気負い立った決意はこの男の思慮よりもこの男の若さがそれをきめさせたものであろう。
が、群議は総反対した。しかし家康はあくまでも主張し、ついに群議をねじ伏せ、翌朝の出撃を決定した。
翌朝、家康は浜松城を出た。
北方へむかった。家康の軍は信玄の三分の一の一万人である。
三方ケ原に出た。
ここで、ほどなくこの原を通過するであろう武田勢を待ったのである。
やがて、武田勢はきた。信玄は十分に予定戦場の地理を見きわめ、行軍隊形を解き、戦闘隊形を編成した。ときに、夕刻四時である。信玄はまず、かれの独創になる、
「水股《みなまた》の者」
という特殊な足軽部隊を繰り出した。人数三百人ほどの礫《つぶて》を打つことに長じた足軽で、全軍のまっさきに進んで無数の礫を打ちこみ、敵に面《おもて》をあげる余裕をなからしめるための部隊であった。その部隊が退くと、これまた武田勢の独特の密集した数団の大軍が、押太鼓を鳴らし、歩武整々として津波のごとく、しかし一歩のゆるぎもなく押し寄せてきた。
徳川軍は、鎧袖一触《がいしゅういっしょく》だったといっていい。織田の協力部隊も大将の平手汎秀が戦死するほどに奮戦したが潰《つい》え、徳川軍も力戦のすえ、三百人の戦死体をのこして潰走《かいそう》し、家康は乱軍のなかでただ一騎になり、途中、何度か武田勢の追跡をうけ、夢中で駈け、その緊張と恐怖のあまり鞍壺《くらつぼ》で脱糞《だっぷん》し、それさえ気づかずに浜松城に逃げこんだ。

この家康の敗北は、数日して京に伝わり、京の山むこうの坂本城にいる光秀の耳にも入った。
「京の市中の人気はどうか」
と、光秀は、京に住まわせてある情報の収集者にその収集を命じたが、予想したように信長びいきの多い宮廷では色を失い、反信長のいまや天下周知の策源地である将軍館では、
「すわこそ——」
と色めきたつ気配で、将軍館から僧侶、行《ぎょう》人《にん》、あきんどなどに変装した密使どもが何人となく出発して行ったという。
この信玄の戦勝が世を一変するかと思われたが、事態はすぐ微妙なものになった。
信玄の動きが、どういうわけかにわかに緩慢になってきたのである。かれは、全軍の行軍を停止した。
十二月二十二日、三方ケ原で勝つや、それ以上は前進せずに兵をまとめ、そのまま遠州に駐留し、彼自身は同国刑部郷《おさかべのごう》に宿営して越《おつ》年《ねん》してしまったのである。動く気配もなかった。
越えて、元亀四年(七月二十八日で天正と改元)になった。
京では、
——どういう料簡《りょうけん》か。
という取り沙汰《ざた》がやかましく、義昭をはじめ、その系統の同盟者はようやくいらだちはじめてきた。
もっとも当惑したのは、越前の朝倉氏であった。信玄が信長の本国に攻め入ると同時に朝倉勢は北国街道を駈けくだって北方と東方から美濃を衝《つ》くという戦略構想が、将軍義昭を仲介としてすでに出来あがっており、朝倉家はその家の浮沈をこの一挙に賭《か》けている。
このため朝倉家から密使が遠州へ急行し、信玄の宿営をたずね、
「いかなる御所存か」
と、ほとんど詰問せんばかりの勢いでその真意をただした。
信玄は、はかばかしくは返答せず、
「いずれ信長の首を見るであろう」
と言い、使者を帰した。
その後ほどなく腰をあげ、三河に入り、家康の支城である野田城を包囲した。しかし攻城に活気がなく、これほどの小城をおとすのに一月をついやした。
陥してさらに全軍を西へ進発させるかと思われたが、ふたたび滞陣し、自分は長篠《ながしの》にしりぞき、さらに付近の鳳来《ほうらい》寺《じ》に移った。
「病気ではないか」
という情報を、岐阜の信長がうけとったのはこのころであった。もしそれが事実なら、信長はほとんど天の恩寵《おんちょう》を受けているとしか思えぬほどの幸運である。
結局、信玄は四月十二日、信州伊《い》那郡駒場《なのこおりこまんば》の旅営で死ぬ。
(不幸な男だ)
と、光秀はその噂をきいたとき、敵将ながらも悵然《ちょうぜん》とする思いがした。結局、人の運命を最後に決定するのは器量以外の何かであろうと光秀は思うのである。
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