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国盗り物語132

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:槙島《まきのしま》 城内の庭に、臥竜《がりょう》の梅がある。すでに蕾《つぼみ》がふくらみ、南にのびた枝には、ただ一輪のみ
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槙島《まきのしま》

 城内の庭に、臥竜《がりょう》の梅がある。
すでに蕾《つぼみ》がふくらみ、南にのびた枝には、ただ一輪のみではあったが、すでに花がひらきそめていた。
信長はこの朝、あふれるような陽《ひ》ざしのなかを、庭に出た。しばらくあるき、やがてひらいた一輪の梅の前に立ちどまり、息を詰めるようにして凝視した。
(将軍を、殺すか)
想《おも》いは、その一事である。その信長のただならぬ様子を、近習の者は遠くから仰いでいる。
(なにをなされておるのやら)
彼等は、陽ざしのなかでおもった。信長の平素には花鳥風月をたのしむ趣味はほとんどないのである。それが、梅花一輪を凝視している。身動きもしない。
(やはり、これは春というものか)
近習の者は、ほのかにおもった。春の気が動けば、信長のような苛《か》烈《れつ》な働き者でもふと梅花に心を奪われることがあるのであろう。
が、信長の目には、一輪の梅が将軍義昭の首にみえてきているのである。いままで義昭の密計を見て見ぬふりをしてきた。ばかりか、義昭の作った落し穴に何度も足をすべらせて落ちこみ、ときには命を失いかけたこともあったが、そのつど手足を無我夢中に動かして懸命にはいあがった。
(そこまで我慢した。しかし限りがある。これ以上我慢すれば自滅しかない)
光秀から今暁《こんぎょう》、手紙がとどいた。内容は細川藤孝の密告である。将軍義昭は京を出て近江で公然と信長打倒の兵をあげるという。
——殺すか。
と最初におもったのはいわば衝動である。殺せば、主殺しとして舅《しゅうと》の斎藤道三や松永久秀のような悪名を天下に流すであろう。
(おれが目的は天下の統一にある。そのために必要とあれば主といえども殺さねばならぬ。しかし殺せば悪名を着る。往年、道三はそのために蝮《まむし》の異名をとり、ついに美濃一国の主人でおわり、天下を心服させるような男になれなかった。おれは道三のへま《・・》をくりかえしてはならぬ。悪名は避けねばならぬ)
その方法が、容易ではない。が、梅を凝視しているうちにやがて信長の意中にその構想が成った。
信長は指をもって鞭《むち》をたわめ、やがて気合をこめてはじいた。梅の花が飛び、はなびらを空中に散らし、やがてはらはらと苔《こけ》の上に落ちた。
信長はすでに顔をあげている。やがて床几《しょうぎ》に腰をおろし、祐筆《ゆうひつ》をよんだ。
「条々」
といったのは、将軍義昭に発する諫状《いさめじょう》の題であった。十七カ条から成るその長大な文章を一気にしゃべった。諫めるの書とはいえ、事実上、義昭の十七の罪を鳴らす弾劾状《だんがいじょう》である。さらには弾劾状というより、宣伝書であった。義昭その人とめざして言うのではなく、信長は天下の諸侯や人心に義昭の悪を訴えようとしていた。
——かかる悪将軍である。
ということを天下に宣伝し、その後多少の期間を置き「義昭改心せず」としてこれを討つのである。人は納得するであろう。
「おれを陥《おと》し入れようとした」
ということは、一語も書かない。まずその第一条に、くれぐれも天皇を尊崇し奉れとあれほど申しあげておいたのに、ちかごろは参内も怠っておられる。けしからぬ、というのである。
すでに信長は将軍を復活し、その権威によって諸大名に号令し天下を統一しようという気持をうしなってしまっている。将軍は使いにくい。
——道具になりきらぬ。
と信長はつくづく思った。将軍もまた武人である以上、兵力をほしがったり権力をほしがったりするのである。こういう生臭さがあるかぎり、道具になりきらぬ。
その点、天皇はいい。その存在の尊さを天下の大名どもは忘れているが、信長はあらためて価値《・・》として発見した。天皇は兵馬を欲しがらず、権力も欲しがらない。
衣冠束帯して先祖を祀《まつ》っているだけのただひたすらに無害な存在である。統一の道具につかうにはうってつけであろう。天皇を上に頂き、その権威をもって天下に号令すれば人心も服するのではないか。
ただ天皇の存在の欠点は、その偉さを天下の者は知らないことであった。天下の者は天皇を大神主《おおかんぬし》程度にしか思っておらず、地上最高の尊貴は将軍であると思っている。信長はまずこの道具《・・》の偉さを天下に知らしめる必要があった。
そのために、往年義昭を将軍の位につけたとき、義昭に、
「しばしば参内して天子の御機《ごき》嫌《げん》を奉《ほう》伺《し》なされまするように」
と要求した。世間に対する現物教育といっていい。将軍が天皇のもとに御機嫌奉伺をなされているとなれば、天下の者は天皇のえらさを知るであろう。ところが、義昭はそれをつづけているうちに信長の魂胆を見ぬいた。
(いかさま、信長という男のあざとさ《・・・・》よ。かの者の肚《はら》の底は、ゆくゆく天皇をかつごうとしているように思える。その天皇に綺羅《きら》を飾らせるためにおれという将軍を利用しているのではないか)
義昭は、この種の事柄《ことがら》を嗅《か》ぎわける感覚が異常にするどい。信長の言いなりになって御所に参内しているかぎり、義昭は天皇という道具《・・》の荘厳を増すだけのための、滑稽《こっけい》きわまりない道具になる。義昭はそのばかばかしさに気づき、ある時期から参内をやめた。
信長は第一条でそれを責めたのである。
ちなみにこの「諫状」は義昭に渡ったあと、ほどなく天下に流布《るふ》された。甲州の武田信玄も死の床でそれを手に入れ、
「信長はおそるべき智謀をもっている」
と、敵ながら感嘆した。
「諫状」は義昭の手に渡った。
義昭はこれをみてついに信長と絶縁することを決心し、信長にほろぼされた南近江の六角氏の残党に指令し、琵琶湖の西岸の湖港堅《かた》田《た》と、南岸の石山寺で有名な石山に城を築きあげて公然対抗した。

が、信長は意表に出た。
あやまったのである。義昭に和議を申し入れ、自分の子を質に送ろうとさえ提案した。舅の道三の轍《てつ》を踏むことをあくまでも怖《おそ》れたのである。
が、義昭は一蹴《いっしゅう》した。
城内の梅が咲きそろったころ、信長は近畿に駐留中の諸司令官に討伐令をくだした。
(光秀めが、どう出るか)
ということは、信長の関心事だった。光秀が織田家で禄《ろく》を受けつつも同時に足利家の奉公人であることは、細川藤孝の場合とかわらない。藤孝はただ高位の幕臣というだけのことであった。その藤孝は二人の主人の相剋《そうこく》をおそれ、わが所領に隠棲《いんせい》したというではないか。
(はて、光秀めが)
と思いつつ、信長は、丹羽長秀、柴田勝家に指令すると同時に、光秀にも指令した。
光秀はたまたま坂本城に戻《もど》っていたが、信長からの使者を上座にむかえ、目を伏せ、心もち顔を蒼《あお》ざめさせながら、
「お受けつかまつりまする」
といった。光秀はことここに至ればもはややむをえぬと思った。自分が奔走して立てた将軍を、どうせほろぼさねばならぬというなら他人を借りず、自分の銃火を使いたかった。
使者が岐阜に帰ったとき、信長は、
「光秀はどう申していた」
と、さすがに光秀のその瞬間の態度が気になった。使者がありのままに話すと、信長はにわかに顔色を変え、
「キンカン頭め、左様に申しおったか」
と叫び、使者を慄《ふる》えあがらせた。信長の気にさわった光秀の文句は、
——お受けつかまつりまする。
ということであった。なるほど、これは奇妙な回答だった。信長の軍勢をあずかる司令官なら、信長の命令を受ける受けぬという立場は持たない。命令をかしこみ、ただ行動すればいいのである。
(あいつ、おれの将軍退治に不服があるらしい)
信長はこの将軍退治に神経を配りすぎてきただけに、心がするどくなっている。光秀の腹中をそう読んだ。
が、当の光秀は、攻城司令官としてはみごとな腕を発揮した。二月二十六日に近江石山城を陥し、三日後に堅田城を包囲し、四時間で陥落させた。
(光秀は、やる)
と信長は思ったが、反面、憎いとも思った。旧主の義昭の城をあのようにさばさばと陥せる神経というのはどういうことであろう。信長でさえあれほど四方に気を配り、討とうか討つまいかと心を悩ましたあげく、かろうじて断をくだしたことではないか。
ともあれ、義昭の前線要塞《ようさい》はつぶれた。その後義昭は京にあり、京都市街の防衛をかためる一方、四方の大名に信長討滅の教書をとばしつつある。信長はもはやみずから出馬してそれを討つべきであったが、しかし岐阜を動かない。
東方の武田信玄の動きを気づかっているのである。信長はここ数カ月来の信玄のふしぎな停滞に疑問をいだき、織田家の諜報《ちょうほう》能力をあげてその実情をつかもうとしているが、なおよくわからない。
「御病《おんいたつき》におわす」
という情報は得ている。しかしそれも確実ではない。
(将軍《くぼう》は必死になって信玄のもとに使いを送っている。もし信玄が達者ならば遠州の宿営地をひきはらってかるがると発《た》つはずだ)
と思い、ひと月待った。しかしいっこうに遠州から足をあげぬのを見て、
(あるいは、罹病《りびょう》は本当かもしれぬ。しかも本国にさえ帰らぬというのは、よほど重いのにちがいない)
と判断し、堅田の落城後一カ月目で信長は大軍をひきいて岐阜を発足し、京にむかった。
近江の湖畔を南下し、三月二十九日いよいよ京に入るべく逢坂山《おうさかやま》にさしかかると、むこうから肩衣《かたぎぬ》をつけた武士が供三人をつれてひたひたと近づいてくる。甲冑《かっちゅう》は供にも持たせていない。
「あれは藤孝ではないか」
信長は、まわりの者にたしかめた。たしかに細川兵部大輔藤孝に相違ない。
(あの風体《ふうてい》、藤孝らしいことよ)
信長は、好感をもった。主人の義昭から捨てられたが、かといって信長の軍勢に加わって累代《るいだい》の主人を討つ気にもなれず、それに悩みぬいたあげくついに所領にひき籠《こも》ったという藤孝の苦悩が、扇子一本を持ったあの姿にありありと出ているのである。すくなくとも信長はそう受けとり、藤孝もそう受けとられることがこの出迎えの目的であった。
「やあ、兵部大輔か」
信長は馬上声をかけ、みながおどろいたことに馬をおりた。
信長はこの幕臣を鄭重《ていちょう》にあつかうのが、いまとなれば重要な政治であった。譜代の幕臣の藤孝でさえ義昭を見かぎったということが、諸国への重要な宣伝のたねになるであろう。
信長は路傍の松の下に床几をすえさせ、藤孝には毛氈《もうせん》をあたえ、煎茶《せんちゃ》をふるまった。話をきこうというのである。
「藤孝、将軍の苦情を申せ」
というと、藤孝は憔悴《しょうすい》しきった顔でかぶりを振った。
「いかにおおせでありましょうとも、それは藤孝の口から申しあげられませぬ。将軍はいかにも類《たぐ》いなき不器量人におわし、かつは岐阜殿に対して大忘恩人にましまするが、しかしながらそれがしにとっては重代の主家でござりまする」
そうかぶりを振りながらも藤孝は奇妙な話術をもっており、かぶりをふる合間々々に義昭の悪謀をならべたてはじめた。
「ふむ、ふむ」
信長は鼻を鳴らし、うなずきながらきいている。藤孝のこの密告こそ義昭討伐の最も強力な理由になるものだった。
密告者、というには藤孝の表情はあまりにも苦渋に満ち、声は終始悲しみでふるえつづけている。そのくるしげな表情に信長さえおもわず同情し、
「よく長年辛抱なされたぞ」
と、いたわったほどであった。そこで信長は藤孝に一言《ひとこと》ききたいことがある。
——討ってよいか。
ということであった。信長の胸中すでに解決していることではあったが、この幕臣の口からひとこと言わせたかったのである。
「どうだ」
と信長は、さりげなくきくと、藤孝もさりげなく、
「拙者の口から申せませぬ。しかしかの御人の御所業はついに天の相許さざるところ。天《てん》譴《けん》たちどころに至りましょう。これをもって足利家がほろびましょうとも、ほろぼした者は余人にあらず、かの御人でござりまする」
藤孝は、討て、という言葉はひとことも使わなかったが、信長が欲している答えをすべてあたえた。
信長はうなずき、最後に「わが家に専心つかえよ」といったが、藤孝は当分そういう気持にはなれないと固辞した。この態度が、信長に好感をあたえた。
(光秀とは、ちがう)
としみじみ思ったのである。
信長は藤孝のこのときの出現をよほど喜んだらしく、愛蔵の貞宗《さだむね》の短刀をとりだし、藤孝にあたえ、最後に、
「わしに仕えよ。待つ」
といった。待つ、といったのは傷心の癒《い》える日まで待つという意味である。
信長は馬上の人になった。
軍は動き、京に入り、しかしすぐには戦闘を開始せず、四日目にようやく二条の将軍館を包囲した。義昭は頼みの信玄が動かぬため落胆し、ついに和議を乞《こ》うた。
信長はその和議を受け、なおも義昭の身《み》柄《がら》も身分もそのままにし、軍をかえして岐阜へもどっている。
信長はあくまでも慎重な態度をとった。しかし義昭に最後の鉄槌《てっつい》をくだす準備だけはおこたらなかった。いざというときには京都にできるだけ早くのぼれるよう琵琶湖の水運を利用しようとし、佐和山(彦根)のふもとの浜で、とほうもない巨船を建造させた。
船の長さ百メートルあまり、櫓《ろ》は百挺《ちょう》という巨船で、それを四十数日で完成させた。
ほどなく義昭が京を脱走し、南郊の宇治の槙島城《まきのしまじょう》にこもり、ふたたび信長退治の旗をかかげたという報に接したとき、信長はおりからの風浪を突いて船を出させ、岐阜から二日の旅程で京に入り、さらに雨中宇治に進出し、槙島城を包囲した。
義昭はふたたび命乞いをした。
「追え」
と、信長は命じた。ここまで手をつくした以上、これで義昭を追放しても世間はそれを諒《りょう》とするであろう。
義昭は追われ、光秀や藤孝があれほど奔走して再興した室町将軍家はここにほろんだ。その後この義昭は、河内、紀州、備前を転々としたあげく最後には中国の毛利氏に身を寄せたが、すでに政治的には廃人とかわらない。
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