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国盗り物語133

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:箔濃《はくだみ》 将軍を追った。というたったいま断行したわが行跡はどうであろう。信長はこの男にしてはめずらしくその行動の
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箔濃《はくだみ》

 ——将軍を追った。
というたったいま断行したわが行跡はどうであろう。信長はこの男にしてはめずらしくその行動のあとにまで懸《け》念《ねん》が尾をひいた。
かといって、後悔ではない。
後味の悪さでもなかった。信長はもともと倫理で行動しているのではなく利害で行動している。問題は、将軍追放の影響であった。
(天下六十余州に割拠する大小名は、おれの将軍追放で衝撃をうけるであろう。おれをえ《・》たり《・・》と罵《ののし》るであろう。さらにおれに抵抗するための結束をいよいよ固めるであろう)
それでもかまわない。刃むかう者は力をもって撃砕してゆけばいいのだが、しかし部下の諸将は心底どうおもっているか。その代表者が、かつて足利家の臣籍にあった明智光秀である。
宇治の槙島攻撃のときも、光秀は川が連日の雨で流れが早すぎるという理由で容易に宇治川を渡らなかった。信長はそれをいらだち、
——渡らねばおれが渡るぞ。
と後方から叱責《しっせき》の使者を送ると、光秀はやっと河中に馬を入れた。
(あいつは、何か思っている)
信長は、そのことが気になった。となれば、ついでに光秀も追放していいのだが、光秀の軍才の卓抜さはたれよりも信長が知っている。いまや織田家の軍事力をささえているのは林、佐久間といった先代からの門閥家老ではなく、信長が抜きあげた光秀と藤吉郎のふたりなのである。この二人の才幹を今後いよいよ使いに使ってゆく以外に六十余州の斬《き》り取りはできない。
義昭追放後、信長は近江南部、西部の掃蕩《そうとう》戦をし、義昭加担の二つの城を手もなく抜きとり、
「光秀、おのれにこの両城を呉《く》れてやろう」
といって信長自身が奪ったその城を、光秀にあたえてとらせた。
湖西の田中(現・安曇《あど》川《がわ》町)城と、木戸城である。どちらも小城ながら比良《ひら》山山麓《さんさんろく》にあって険《けん》阻《そ》をたのみ、堅城の評判が高かった。
この思わぬ恩賞に、
——明智殿を、偏愛なされておる。
という評判が家中でささやかれたほどであった。むりもなかったであろう。光秀のみがすでに城主であったのに、あれほど外交に軍事に駈けまわっている藤吉郎秀吉でさえ、いまなお横山城の守備隊長であって城主ではないのである。
……………………
 このころになると甲州の武田信玄の死はいよいよ確実なものとして岐阜へもたらされた。
「天、われに与《くみ》す」
と信長はむしろ自分におどろいた。自分の運の強さを知り、彼自身が自分の運の信奉者になり、その果断と周到さを織りまぜた複雑な行動力にいよいよ光沢《つやめき》が出てきた。
このとし八月なかば、越前に乱入している。光秀はこの遠征軍の先鋒《せんぽう》司令官であった。朝倉軍を連破し、ついに他の諸将とともに義景《よしかげ》を大野郡の賢正寺に追いつめ、自殺せしめた。光秀にとってこの朝倉義景も旧主である。が、当時の光秀は朝倉家に渡り奉公をしただけのことでもあり、義景からかくべつな恩情をかけられた覚えもなかったため、足利義昭の場合とちがい、さほどの感傷はなかった。
「光秀、このたびはよう働いた」
と、信長はいつもの皮肉はいわず、素直にほめてくれ、この占領早々の越前の司政官として光秀を残留させた。光秀はさっそく北《きた》ノ庄《しょう》(福井)城に入り、戦後の庶政にあたった。
国中の人々は、
「あの明智なるお人を覚えている者もあろう。美濃のうまれで諸国を流《る》浪《ろう》し、やがて当国に流れてきて長崎村や一乗谷に足をとどめ、軍略、兵法などを教えていた牢人《ろうにん》であるらしい。その後、一時朝倉家の禄《ろく》を食《は》まれたが、朝倉家では厚遇せぬため将軍をかついで織田家に入った。織田家では大きに優遇され、いまでは三本の指に入る大出頭人《だいしゅっとうにん》よ」
とうわさし、光秀の材幹を用いきれなかった朝倉義景こそほろぶべくして亡《ほろ》んだ大将である、とみな言った。
占領地司政官としての光秀の評はよかった。この男の才能の第一は、民政の能力であるらしい。かれが朝倉家にいたころに彼をいじめた連中も、いまとなってはひざまずいて自分の窮状を陳情しにきたが、いずれもこころよく応対してやった。
その間、信長は南下している。
越前から北近江に入り、朝倉氏の片われである浅井氏をその本拠小谷城に包囲した。この方面の先鋒司令官は木下藤吉郎秀吉であった。
すでに浅井氏には往年の実力はない。北近江一帯の支城は歯をぬくように抜き去られ、いまでは奥歯ともいうべき小谷城ひとつで防戦している。しかし浅井の兵はつよく城は堅固で、その攻めにくさについては信長は元亀元年の開戦いらい足かけ四年の経験で知りつくしていたため、調略をつかおうとした。
敵将長政へ申し入れた。
「ゆるしてやる」
というのである。だけでなく城を退去すればそのあと大和一国を当ておこなうであろうという夢のような条件を出した。
浅井家の将士は、動揺し、にわかに戦意がおとろえた。それが信長のねらいであった。しかもこの提案には、まんざらうそではなさそうな根拠がある。浅井長政の夫人お市は信長の実妹であり、そのお市に対する情にひかれて信長がこういった、ともとれそうであった。
「やはり御兄妹のお血はあらそえぬ」
と城内の人情家たちは言い、厭戦《・・》家たちは、
「もはや頼みの朝倉がほろびて御当家は孤立無援である。どうぞこの信長の申し入れを殿様(長政)は素直にお受けなされまするように」
そう祈った。
が、当の長政は一笑に付した。
「信長のやりそうな手よ」
長政は見ぬいた。もともと長政はそのまるまると肥った若ぶとりの体《たい》躯《く》でもわかるように、権謀家の資質をもっていない。どちらかといえば名門の子らしい生《き》一本《いっぽん》さと素直さをもっていたために、まだ織田家と友好関係にあったころ、信長は長政の性格を愛した。たとえば将軍義昭を奉じて京に入ったときも、あいさつにやってくる京の富豪、神主、門跡《もんぜき》たちに、
「このたびの上洛《じょうらく》には近江小谷の備前守殿(浅井長政)もともに来ている。かれはわが妹婿《いもうとむこ》であるゆえ、わが旅館にあいさつにくるより、かれの旅館に行ってやれ」
といちいち言っていたほどだった。信長はあの体躯堂々たる若者の性格の純情さを見ぬき、ぜひこの西隣の近江を版図とする長政を弟分にして東隣の家康とともに織田家の動かぬ同盟者にしたかったのであろう。もしそのまま長政が同盟者でありつづけたならば信長の近畿統一は三年は早くなったにちがいない。
が、浅井氏は反覆した。信長にとって意外なことに北方の朝倉氏と組み、あくまでも信長に抵抗した。抗戦四年で、頼りの信玄は死に、同盟者の朝倉氏はほろび、いまや小谷は孤城になった。
「信長の手なのだ」
長政が信長の開城勧告をそのようにみたのは、長政に謀略の才能があったわけではなく、信長の研究をそこまで仕尽したからであった。この満二十八になる浅井家の若当主は、二十代の前半は信長を義兄として交際し、後半は信長を敵として戦っている。善悪ともに信長に対する長政の見方が深まらざるをえなかった。
(抗戦すればほろびる。しかし名こそ惜しみたい)
と、長政はかつて信長がその点を愛した生一本さをもって決意し、一族郎党もろとも名のために全滅することにかぎりない陶酔をおぼえた。
が、城内には動揺がおこっている。すでに一族や重臣のなかにも内通した者があり、志操のたしかな者もたがいに疑惑しあって結束が日に日に崩れようとしていた。
長政は、ついに自分の死をもっとも華やかなものにするために一策を講じた。
すぐ浅井家の菩《ぼ》提《だい》寺《じ》である木之本の浄信寺地蔵堂の別当雄山という僧をよび、
「わしの葬儀を出したい」
と説得し、城内の曲谷というところから石材を切り出させ、二日がかりで石塔をつくらせ、碑面に自分の戒名を刻ませた。
  徳勝院殿《でん》天英宗清大居士《こじ》
 というものである。それを城内の馬場にすえさせ、やがて三日目の夜が明けるとともに、城内の士格以上をよびあつめ、
「焼香せよ」
と命じたのである。当の長政は死者の装束を着て石塔の背後にすわり、二十人ばかりの僧が読経《どきょう》をはじめたため、みなやむなく焼香した。そのあと長政は木村久太郎という大力の士に石塔を背負わせて城を脱出させ、石塔を湖底に沈めさせた。このため城中の士はみな必死を覚悟した。
力戦のすえ、二十八日長政は切腹し、城は陥ち、浅井家は滅亡した。
信長は小谷城をおさめ、この城を木下藤吉郎にあたえてはじめて城主とした。光秀より遅れること一年半である。

浅井・朝倉がほろび、信長は多少休息することができた。この年も暮れ、天正二年になった。この年の元旦《がんたん》現在、近畿で織田軍と交戦中の敵は、もはや摂津石山の本願寺と、その与党である伊勢長島一《いっ》揆《き》だけになった。
信長は、岐阜城内で大《おお》晦日《みそか》を送り、ここ数年来もっとも安全な正月を迎えた。もはや北方から美濃をおびやかしていた朝倉氏はなく、岐阜から京へ往来する信長の軍用道路を終始おびやかしつづけていた浅井氏もない。
この元旦、岐阜城下のにぎわいというのは、道三が稲葉山城(岐阜城)を居城としていらい空前絶後のものであった。近畿の各地に在陣している諸将が、年賀のために岐阜城下にあつまってきたのである。かれらがその前線陣地を留守できるのは、風雲が、つかの間ながらも一休みしたかたちだったからである。
信長も、かつてないほど上機嫌《じょうきげん》だった。譜代、外様の大小名が居ならぶうちに屠蘇《とそ》を三《さん》献《こん》祝い、やがて外様衆が退出した。
残ったのは、たがいに遠慮のない譜代の大小名ばかりである。柴田、林、佐久間、池田、佐《さっ》々《さ》という五人の先代からの家老、物頭《ものがしら》のほかに家老以上の大兵力をまかされている木下秀吉、明智光秀、荒木村重《むらしげ》などが居ならぶ。さらに、
「いやさ、おめでたき君が春でありますることよ」
と、筆頭の柴田権六勝家が賀をのべた。
そのとおりであった。きょうこの日、織田家の主従が岐阜で顔をそろえて天正二年の初春を寿《ことほ》げようとは、正直なところ、ここ数年、かれらはおもったこともないであろう。幾度か、死神が織田家に侵入し、そのつど信長は死神を叱《しっ》咤《た》し、その撃退法を考えこの場の司令官どもを駈《か》けまわらせてつねにきわどい一瞬、一瞬でたたき出した。
(あのときこのときといったふうに思いだすと、信長もわが首筋が冷たくなるにちがいない)
光秀は、神妙にひかえながら思った。信長のいつにないはしゃぎようも、虎《こ》口《こう》を脱した安《あん》堵《ど》感《かん》がそうさせているのであろう。やがて酒が出た。
「おう、みな」
信長は、腕白小僧のように叫んだ。
「きょう春の寿ぎに、よい肴《さかな》があるわ」
と近習に命じ三個の桐箱《きりばこ》をはこばせてきた。
(茶碗《ちゃわん》か)
光秀はおもった。みなもそうおもったにちがいない。信長は子供のようにくっ、くっ、と笑いながら、
「権六、あけてみい」
筆頭の柴田勝家に命じた。権六はかしこまってあけ、なかのものをとりだした。
黒漆に黄金をあしらった漆器のような器物である。どうやら椀《わん》か、杯のようであった。
「なんじゃと思う」
「はて、はて」
勝家は、くびをひねっている。
「朝倉義景、浅井久政、同長政の三人からぶんどったものだ」
「ほほう、彼《か》の両家のお蔵から?」
「ばかめ、それはあの死神どもの頭《こうべ》よ」
と信長はいった。
みなあっと声をのみ、のぞきみると、なるほど頭《ず》蓋骨《がいこつ》の鉢《はち》のようである。それに漆を何度もかけ、頭の縫い目には金粉をあつくたたいて、いわゆる箔濃《はくだみ》にしてある。持つと黄金の重味で存外重い。
「わっはははは、これはよい御趣向」
権六勝家が、笑った。柴田は元来軽薄という印象からおよそ遠い男だが、わが主人のあまりにもすさまじい敵愾心《てきがいしん》に毒気をぬかれ、心の平衡をうしない、それをかくすために、とりあえず哄笑《こうしょう》せざるをえなかったのであろう。
他の将も、とっさに哄笑するが身のためと思った。わっと笑いだし、どの男の上体もはげしくゆれた。ただ藤吉郎だけは哄笑せず、ニコニコ笑っている。出来るだけ感情を消した、幼児のように無邪気な笑顔を作っていた。これも当然、内心の動揺を見すかされぬための演技にちがいない。
が、ひとり別の表情《かお》がある。
光秀であった。
(笑え。——)
と光秀は自分に懸命に命じていたが、どうしても笑顔にならない。この演技力の乏しい男は、無能な狂言師のように素顔でぼう然とすわっている。
その光秀の表情に、信長の視線が走った。がすぐ他に転じ、
「それに酒を汲《く》んでくれるほどに、みなわが身の命冥加《いのちみょうが》を祝え」
と言い、近習に酒を注がせた。
「これは結構なお味」
後年、信長の性行《せいこう》を怖れて謀《む》反《ほん》をおこす荒木村重でさえ、軽薄に躁《はしゃ》いだ。
やがて光秀の前に、それが運ばれてきた。光秀は一礼した自分の頭上に信長の視線が突きささっていることを、痛いほどに感じつづけている。が、光秀は飲まない。
この頭蓋骨は、旧主朝倉義景のものであった。流浪時代、この男に希望を見《み》出《いだ》して越前にゆき、しかもこの男に失望して越前を去った。いま、なんという不幸で滑稽《こっけい》な再会を遂げていることであろう。
「十兵衛っ」
叫び、信長が立ち、上段をとびおりた。信長にすれば、せっかく自分が、この独創的な方法で幸福と充足感を味わっているのに、光秀は腐れ儒者のようにひややかに座し、自分を批判し、嫌《けん》悪《お》している。そうと信長はとった。
「なぜ飲まぬ。キンカン頭っ」
信長はその異風な杯をつかみ、光秀の口もとに持ってゆき、唇《くちびる》をひらかせようとした。
「こ、これはそれがしが旧主左京大夫《さきょうのだいぶ》(朝倉義景)殿でござりまする」
「旧主が恋しいか、信長が大事か」
信長は光秀の頭をおさえ、唇を割らせ、むりやりにその酒を流しこんだ。
「どうじゃ、旧主の味は」
「おそれ入り奉りまする」
「光秀、この杯《・》をうらめ。この杯《・》はそちに何をしてくれた。信長なればこそそちをいまの分《ぶ》限《げん》に取り立てたぞ」
信長には、そんな狂気がある。
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