一六、七世紀のヨーロッパでは、魔女の疑いをかけられた人々がつぎつぎ捕らえられ、残酷な拷問にかけられて焼き殺されていった。約三〇〇年間にわたって、ヨーロッパに猛威をふるった魔女狩りの嵐《あらし》。このとき殺された人々の数は、数十万とも数百万ともいう。
原因としては、第一に当時の社会不安をあげられよう。当時、人々はつねにないどん底に突き落とされていた。ヨーロッパ人口の三割近くを奪ったペストの流行、極端なインフレ、宗教改革運動など、激動のなかで民衆の不安はとどまるところを知らなかった。
そのやり場のない不安のはけ口として選ばれたのが、�魔女�だったのである。魔女はその魔力で天候を不順にし、畑の収穫を枯らし、胎児を流産させ、男を不能にすることも出来る。赤ん坊を殺し、その肉を食らい、悪魔に生けにえとして捧《ささ》げる……。というわけで、この世の一切の不幸が、魔女のせいに押しつけられたのだ。
ヨーロッパに巻き起こった宗教改革運動に対抗して、ローマ法王は修道会を結成し、異端弾圧に力を入れはじめた。こうして成立したのが、異端とみなされた者を法廷で裁く「異端審問制度」である。
魔女裁判は文字どおりの暗黒裁判で、そこではどんな残忍な拷問も非道な手段もまかりとおっていた。異端者から財産を没収できるようになると、教会はいっそう異端弾圧に熱心になった。魔女狩りの時代には、ヨーロッパ中に完備された異端審問制度がフル回転したのである。
一五世紀に、魔女狩りは頂点に達した。それを決定的にしたのが、『魔女の鉄槌《てつつい》』の出版である。ドミニコ会修道士であるヤーコブ・シュプレンゲルとハインリヒ・インスティトリスの二人が、法王インノケンティウス八世の許可のもと、一四八五年に出版した魔女裁判マニュアルである。
出版されるやいなや、ドイツで一六版、フランスで一一版など、またたくまにベストセラーになった。この書は「人間が綴《つづ》った本のなかで、これほどの苦痛を生み出したものはない」といわれるほどの害悪を、全ヨーロッパにもたらしたのである。
魔女の特徴から発見法、拷問法にいたるまで、詳細に示されたこの書は、「魔女は生かしておいてはならない」という聖書の一節をたてに、徹底的な魔女攻撃をおこなっている。
第一部では、魔女や妖術使《ようじゆつつか》いが実在していることを、神学的立場から説明している。魔女に対してされる告発には、たいてい彼女が悪魔と寝たという罪状がつけられており、魔女裁判では、性的要因が大きな重要性を持っているのだ。
第二部では、魔女たちがどんな魔術を用いて、人々に危害を加えてくるかを紹介している。たとえば魔女は妖術を身につけるため、洗礼を受けていない赤ん坊を煮て食べる。さらに魔女は、人間の生殖能力をなくしたり、胎児を流産させたり、男性を不能にしたりすることも出来るというのだ。
第三部では、魔女裁判の方法について書かれている。たとえば、被告の着ているものを全部はぎとり、魔術の道具を隠していないかすみずみまで探るように。さらに被告が自白しそうにないなら、縄で縛って拷問にかけよというような、具体的なことが書かれていた。
魔女告発の門戸は広く開かれており、その人が魔女だという噂《うわさ》がたつだけでも、噂の主を逮捕してもいいことになっていた。弁護人をつけることは一応許されてはいるが、弁護人があまり熱心だと、今度は彼自身が容疑者にされかねないことになる。
『魔女の鉄槌』の登場で、「魔女とは異端のなかでもっとも極悪な異端であるため、撲滅せねばならない」という論拠が確立されたのだ。捕らえられた魔女がみな似たような自白をしているのは、この書をもとに拷問が行なわれたためだろう。
このように魔女裁判の大半は、あやしげな知人の密告や世間の噂がもとになっている。告発といっても、すでに魔女として逮捕された女が、拷問の苦痛から逃れたいばかりに、誰かを共犯者だと申し立てることもある。でないときは、仲の悪い隣人の密告をもとに逮捕されることもある。たとえ、子供の証言でも事足りるのだ。
当時ヨーロッパで、身に覚えもない魔女の嫌疑をかけられたのは、じつは村でも指おりの美女とか、金持ち女である場合が多かったという。美女や金持ち女は、村のなかでは一人だけポツンと目立っている。ほかの女からは敬遠されて、友達がいないことも多い。
ただし男たちからは大モテで、彼女を手に入れようとする男たちが、面白いように周囲に群がってくる。彼女は、男たちからさんざんチヤホヤされたあげく、よりどりみどりの候補者のなかから、好きなのを選ぶことが出来るのだ。
これを見ていて、ほかの女たちが面白いわけはない。なぜあの女だけがモテるのだろう。なぜあの女だけが、あんなに幸せな人生をおくるのだろう。あの女さえいなければ、あの男はわたしのものになったのに……。
そう、まるで「風と共に去りぬ」のスカーレットのようなものだ。周りの男たちが放ってはおかない美女だが、女たちからはいつも憎まれ嫉妬《しつと》される。かくて、ただでも男不足の小さな村のなかで、しだいに皆がモテモテのその女を憎むようになる。あの女は男をまどわす悪い女だと噂がたち、もしかしたら、人間の皮をかぶって、男を誘惑する魔女かも知れない、などという中傷が広がっていく。
そして、たまたま村に疫病が流行《はや》ったり、霜で畑の作物がやられたり、誰かが事故にあったりすると、人々はこのときとばかり、あの女のせいだと、口々に騒ぎたてるのだ。
こうして捕らえられた「魔女」たちは、しょせんはただのウブな百姓女でしかない。いかめしい裁判官の前に引き出され、残虐な拷問にかけられれば、ひとたまりもなく、一〇人中一〇人までが魔女だと認めて、処刑されてしまった。
当時考えられた、魔女識別法には二つある。その一つは「針刺し法」だ。当時、悪魔は魔女に、家畜に化けた「使い魔」を子分として与え、魔女はこの使い魔に、自分の血を分け与えると考えられていた。
そこで悪魔学者たちは、魔女が使い魔に自分の血を吸わせた証拠に、からだのどこかにシミか傷あとのようなものが、残っているはずだと主張した。異端|糾問官《きゆうもんかん》たちは、魔女のしるしを探すのだといって、女を真っ裸にして拷問台に縛りつけ、からだ中を点検させた。さらには、からだ中の毛も剃《そ》り落として、なんとかそのしるしを見つけ出そうとした。
つぎに糾問官は、悪魔のしるしのある場所は、魔法で感覚がマヒしているはずだと言いだし、その個所を針で刺して探ることにした。それこそからだ中、肉の奥まで針で刺しまくるから、生きた心地もしない。のちにはまぶたの裏や舌の裏、性器のなかまで、針刺しの拷問は及んでいった。
これでも判別がつかないと、もう一つの方法がある。魔女は水に浮かないと信じられていたため、女の手足を一緒に縛り、「魔女|風呂《ぶろ》」と名付けられた浴槽のなかに投げこむのだ。もし浮き上がってこなければ、魔女と断定された。どんな泳ぎの名人でも、これではひとたまりもなかったろうに。
イギリスのエセックス州では、つい最近までこんな「魔女泳がし」の風習がつづいており、この法律が完全に廃止されたのは、なんと、わずか四三年前の、一九五一年のことだという!