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美しき拷問の本38

时间: 2020-07-24    进入日语论坛
核心提示:アイヒマンの処刑一九六二年六月一日、イスラエル、テルアビブ発、ロイター電は、「イスラエル政府が、元ナチ親衛隊中佐カール・
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アイヒマンの処刑

一九六二年六月一日、イスラエル、テルアビブ発、ロイター電は、「イスラエル政府が、元ナチ親衛隊中佐カール・アドルフ・アイヒマン(五六歳)を、五月三一日夜、テルアビブ郊外のラムレ刑務所で絞首刑に処した」と、発表した。
一四年前に建国されたイスラエルで、アイヒマンは最初の死刑囚だった。それまでこの国には死刑制度がなかったが、アイヒマンを死刑にするために、わざわざその制度を作ったのだそうだ。
アイヒマンの死刑に列席した、ロイター通信のワレンシュタイン記者はこう伝えている。
「足もとの床が口を開き、アイヒマンが死へと吸い込まれていったのは、五月三一日の深夜である。彼は最後の瞬間まで落ちつきはらって、しかも傲慢《ごうまん》だった。首に縄がかけられる寸前まで、彼はこう言った。
『ドイツ万歳、アルゼンチン万歳、オーストリア万歳! 私は自分にゆかりのあったこの三国を決して忘れない。家族や友人たちに宜《よろ》しく言ってくれ。私は戦争のおきてに従わねばならなかった。さあ、もう準備はできている』
アイヒマンはつぎに、目の前に立っている、我々記者のほうに執拗《しつよう》な視線をうつした。そしてゾッとするような微笑を浮かべて、こう言ったのだ。
『みなさん、またお会いしよう。これが運命というものだ。私はこれまでずっと神を信じてきた。そして神を信じながら、死んでいく』
いよいよ絞首台に向かう段になっても、アイヒマンは自分の犯した恐ろしい罪に対する悔悟の念は、一向に見せなかったという。
一九四一年五月、アイヒマンは、ヒトラーからユダヤ人皆殺しを命じられた、アウシュヴィッツ収容所長ルドルフ・ヘスに、毒ガスを用いることを提案した。さっそくアイヒマンの命令で、脱衣場とガス室とエレベーターのついた、第一、第二の死体焼却所が建造された。それらは一日に、二〇〇〇人のユダヤ人を殺してその死体を処理することが出来た。
まもなく第三、第四、第五の死体焼却所も完成したが、もっとも完備した第五焼却所では、多いときはなんと一日に九〇〇〇人のユダヤ人を虐殺して処理することが出来たという。
アイヒマンは、一人でも多くのユダヤ人を殺して成績をあげようと、全力をつくした。大戦でしだいにドイツ軍が不利になると、「死の工場」のスピード・アップを命じたため、それからというもの、これまで以上の地獄絵図がはじまった。毎日、何万人ものユダヤ人が、ひとまとめにしてアウシュヴィッツのガス室に投げこまれたのだ。総計六〇〇万人を殺害したと、アイヒマン自身が告白している。
アイヒマンがついに逮捕されたのは、一九六〇年三月二一日のこと。きっかけは、この日彼がブエノスアイレス郊外の花屋で買った、一つの花束だった。花束は、このリカルド・クレメントと名のる男が、実は元ナチ親衛隊の大物アイヒマンであることを示す、決定的証拠だったのだ。
ドイツ降伏後、アイヒマンはドイツ空軍二等兵に変装した。一九四五年五月にアメリカ軍に逮捕されたが、混乱のなかを脱走してローマにむかい、そこで他国籍者の身分証明書を手に入れると、ドイツに舞いもどって人目につかないように暮らしはじめた。
ちまたでは、生き残ったユダヤ人ゲリラ隊員たちが、収容所で惨殺された家族や隣人の仇《かたき》を討とうと、ナチスの親衛隊幹部を血まなこで探しはじめた。危なくなったと悟ったアイヒマンは、一九五〇年、妻子とともに南米のアルゼンチンに逃亡したのだ。
アルゼンチンでは、すでに亡命していた元親衛隊の仲間たちが迎えてくれた。アイヒマンはリカルド・クレメントという偽名を名のり、仲間たちが設立したドイツ・アルゼンチン商会に勤めることになった。
しかしユダヤ人ゲリラの捜索はますます厳しくなり、イスラエルの特務機関は、一九四〇年に写したアイヒマンの写真をついに手に入れた。鮮明ではないが、顔だちは十分に分かる。
こうしてアイヒマンを探して、ヨーロッパ・アメリカ全土に捜査網がはられたのである。
一九五〇年、北アフリカ、ジブラルタル海峡に面するタンジールで、モサド情報員はついに、三〇人の元ナチ高官がスペイン経由でヨーロッパを脱出したこと、そのなかのリカルド・クレメントは、バチカン市当局発行の難民証明書で、南米に向かったことを突きとめた。
さらに一九五七年、ダッハウの強制収容所の生き残りで、アルゼンチンに移住していたユダヤ人が、ドイツの秘密情報員にこんな情報を伝えてきた。彼の娘のクラスメートが、ユダヤ人排斥を口走り、ユダヤ人を殺したヒトラーを絶賛しているというのだ。
少年の名は、ニコラウス・クレメント。娘から少年の父親の特徴を聞いたとき、そのユダヤ人はアイヒマンだと直感した。そしてそのことを、ドイツにいる告発者代表のバウアー博士に伝え、バウアー博士はさらにテルアビブに伝えた。
イスラエル一の名スパイ、イッセル・ハレルが、作戦を指揮することになった。アルゼンチン情報部の報告で、アルゼンチン政府がすでにクレメントの正体をつかんでいたことが分かった。
しかしアルゼンチンが真っ向から亡命者引き渡しをすれば、戦犯を知りながらかくまったことが、世界に知れてしまう。それでは立場がなくなってしまうため、アルゼンチン当局は、イスラエルがその男を逮捕するのを見てみないふりをすると約束した。
アルゼンチンで、モサド情報員はクレメント一家の監視を開始した。遠くから写した写真をテルアビブへ送ってユダヤ人生存者らに確認させたが、はっきりアイヒマンと言い切れる者はいなかった。みな収容所でも、彼を遠くから見かけただけだったのだ。
そんなとき、思わぬ吉報が舞いこんだ。三月一二日、クレメントは勤め先の工場から帰る途中、一軒の花屋で花を買っているところを目撃されたのだ。
見張りの一人が、その日の日付とクレメントの行動に、重大な関連を見つけた。じつは三月二一日は、ほかならぬアイヒマンの結婚記念日だったのである。
さっそくバレルは、敏腕の一一人でチームを結成した。なかの数人は別ルートからブエノスアイレスへ向かって、捕らえたアイヒマンを監禁しておくための隠れ家を用意した。
残りの者は、アルゼンチン独立一五〇周年祝賀会におもむくイスラエル高官らを乗せた、エルアル航空機の乗務員に変装し、一九六〇年五月一二日にアルゼンチンに到着した。
五月一一日の夕方、工場を出たアイヒマンは、いつものように自宅近くでバスを降りた。そのとたん、三人の情報員に左右から腕をつかまれ、車に押しこまれたのだ。
アイヒマンは隠れ家に運ばれ、ただちに身体検査をされた。盲腸の手術あと、左の眉《まゆ》の上の傷、そして元SS隊員である印の左|脇《わき》の下の血液型の入れズミなど、すべては調査書と一致した。
睡眠薬を嗅《か》がされたアイヒマンは、看護夫に扮《ふん》したチームの一人にブエノスアイレス空港に運ばれた。アイヒマンは、「この男は自動車事故で頭を怪我しているので、扱いに注意すること」と書かれた、偽造書類をたずさえていた。
こうしてアイヒマンはエルアル機で、無事イスラエルのテルアビブに運ばれた。そして一九六一年一二月一二日の裁判で、数百万人のユダヤ人を虐殺した容疑で有罪となり、翌年の五月三一日、ついに絞首刑に処されるのである。
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