残酷さのシンボルとして悪名高い「ギロチン」も、実は少しでも受刑者の苦しみを減らしてやりたいという、思いやりから発明されたものといったら、あなたは驚かれるだろうか?
当時パリ大学医学部教授だったギョタン博士は、一七八九年一二月の三部会に、第三身分代表者として出席し、「処刑が誰にでも同じ方法で、むだな苦しみを与えることなく行なわれる」べきだと主張した。
これをきっかけに、大きな斧《おの》のような刃が落ちてきて、一瞬のうちに下の受刑者の首を切り落とすという装置が、死刑に使われるようになったのである。というのも、それまでの処刑では、国や政府が堂々と残酷な拷問をおこない、処刑法も火あぶりゃ四つ裂きなど、千差万別。首切りなど、むしろ穏やかなほうだったのだ。
さらに当時のパリで「ムッシュ・ド・パリ(死刑執行人)」の地位にあったシャルル・アンリ・サンソンは、一七九一年、司法大臣に処刑に剣をつかうことの不便さを主張し、死刑囚の体を固定して、迅速に処刑をおこなう機械が、ぜひとも必要だと訴えた。
「一度死刑に使った剣は、もう二度とは使えません。大勢を一度に処刑するときには、そのつど刃こぼれした剣を研ぎなおさねばなりません。これでは手数がかかって、ちっとも仕事がはかどりませんや」
当時はまだロベスピエールによる恐怖政治も始まっていなかったのだが、サンソンには、もうじき自分の仕事が忙しくなるだろうという、何やら不気味な予感がきざしていたと見える。
そこで国民議会は、有名な外科医であるルイ博士に、首切り機械に関する企画の作成を要請した。すでに無数の外科器具の発明者として定評があった博士に、白羽の矢が立てられたのである。
一七九二年三月一七日に、博士が考案したのは、ハリファックスの「落とし斧」をもとにした首切り道具で、これはだいたい、のちのギロチンに近い構造になっている。
ただしルイ博士の設計図では、三日月形の刃が使われているが、これは後であまり好ましくないことが判明し、傾斜のついた刃に変更された。
企画は採用され、さらに検討されて、パリに住むドイツ人のピアノ製作者トビアス・シュミットに、最初のギロチンの制作が命じられた。当時まったくの無名だったシュミットは、自分もツキがまわってきたと大喜びしたそうだ。彼はどうも、アマチュア音楽仲間である、死刑執行人サンソンの推薦があったらしい。
シュミットははりきって作業を開始し、一七九二年四月にようやく完成した機械を、最初は生きた羊に、つぎに人間の死体を使って実験してみた。ところが羊のほうは成功したが、人間のほうはうまくいかなかった。その刃で頸椎《けいつい》は切断できたものの、腱《けん》と筋肉が切れないので、完全に頭がはなれないのである。
この失敗をもとに、今日見るような、かなりの重量がある、傾斜型の刃が発明された。これをふたたび人間の死体で実験してみると、今度は大成功だった。そこで四月二五日に、はじめてギロチンが処刑場に登場したのである。ただし当時のギロチンは、設計者の名前をとって「ルイゼット」と呼ばれていた。
かくて一七九三年にロベスピエールの恐怖政治がはじまると、ギロチンは無数の�高貴な犠牲者�を輩出することになる。
まず一七九三年一月二一日にはほかならぬフランス国王ルイ一六世、同年七月一七日には、革命家マラー殺しの美女シャルロット・コルデー、同年一〇月一六日には悲劇の王妃マリー・アントワネット、同年一一月五日には、平等公フィリップこと王族オルレアン公、同年一二月八日には国王|寵姫《ちようき》デュ・バリー伯爵夫人。
九四年三月二四日には革命指導者エベール、同年四月五日は革命指導者ダントン、そして同年七月二八日には、当の恐怖政治の担い手ロベスピエールが、反対派に捕らえられてギロチンの露と消える……。
以上、めぼしい人物をあげただけでも、いかな盛況ぶりだったか、お分かりいただけることだろう。ロベスピエールが失脚すると、ギロチン台は革命広場(現コンコルド広場)から姿を消した。毎日のようにサント・ノーレ通りを死刑囚を山積みにして刑場にかよった、馬車の光景は見られなくなった。囚人の数もガタ減りになり、恐怖政治はついに終わりを告げたのである……。
ちなみに、恐怖政治のあいだだけで、パリでは約三〇〇〇人、フランス全国では四万人の人々がギロチン台の露と消えたという……。