フランス革命のときの王妃マリー・アントワネットは、一七九三年八月二日から一〇月一六日の処刑の日まで、セーヌ川のシテ島にある、コンシェルジュリという建物に閉じこめられていた。
中世に建築された優美で壮麗な建物だが、コンシェルジュリという名前は、コンシェルジュ(管理人)という語から来ている。ここは昔は王宮の一部で、宮廷奉行職が管理する建物だったのだ。
一四世紀末に、国王シャルル六世が狂気の発作を起こし、静養のため王宮からマレー地区のサン・ポル館にうつった。それ以来、ここコンシェルジュリは牢獄《ろうごく》になったのである。
その後、コンシェルジュリにつけられたあだ名が、なんと「ギロチン待合室」。フランス大革命時に、ここは大幅に改築されて、革命裁判所に送られていく未決囚の収監所となったのである。恐怖政治のあいだに、約二六〇〇人の人間が、ここから断頭台に送られていったのだ。
マリー・アントワネットもダントンも才媛《さいえん》ロラン夫人も、そして独裁者ロベスピエールも、ここに収容されて、死の瞬間が来るのを待っていた。革命当時、コンシェルジュリの入口には、いつも大勢の女が群がっていた。送られてくる囚人を見物するためである。新しい囚人が着くたびに、女たちの間から黄色い歓声があがった。
極度に神経をはりつめた生活を送っていた彼女たちにとって、死刑囚見物は唯一の気晴らしだったのだ。歓声で迎えられたほうも、さぞかし立腹すると思いきや、意外にケロリとしたものだった。毎日毎日、身近な人間がつぎつぎ処刑されていくのを見ていると、人間も死というものに麻痺《まひ》してしまうのだろう。
女囚たちは出来るだけお洒落《しやれ》をして、許可されていた中庭の散歩に出かけたし、男囚たちも、よるとさわると、ギロチンをネタに陽気にヤジを飛ばしあった。ときにはこんなふざけた歌が、何処《どこ》からともなく聞こえてくることもあったそうだ。
「オレがギロチンで首を切られちまえば、オレもこの鼻に用がなくなるだろう」
ギロチンが最初に発明されたとき、ギヨタン博士はそれを、「首筋に軽いそよ風を感じたかと思うと、一瞬にして刑が終わる」機械だと褒めたたえたものだ。いずれにしても、それまで常用されていた火あぶりや四つ裂きの刑にくらべれば、きわめて穏やかなものだったことは間違いない。
ところで、ギロチンによる史上最初の処刑が、革命四年目の一七九二年の四月二五日におこなわれることになった。夜明け前から、野次馬が市役所前の広場に所せましと詰めかけた。その日の受刑者は、強盗殺人犯のペルチエだ。
集まった人々が期待に胸を躍らせて見まもるなか、執行人たちが慣れない機械の据え付けにひまどって、刑が開始されたのは、やっと夕闇《ゆうやみ》がせまったころだった。
ようやく燭台《しよくだい》がかかげられ、大きな出刃包丁の刃のようなものが引きあげられ、木の台のうえに強盗殺人犯が首をつきだして固定された。
ところが一瞬後には刃が落下して、犯人の首はふっとんだ。あまりのあっけなさに、満場の群衆はがっかり。翌朝、さっそく次のような小唄《こうた》がつくられ、たちまち町中に広まったという。
「大悪党にふさわしいのは、やっぱりなじみの首くくり……」