しかし信長が行なった大量虐殺のなかでも、もっとも残虐なのは長島一向一揆の捕虜二万人の火あぶりだろう。
元亀元年(一五七〇)、石山本願寺は各地の門徒組織に、織田信長との徹底抗戦を命じた。以来、信長は、美濃(岐阜)・尾張(愛知)・伊勢(三重)国境の長島願証寺に結集する長島一揆を何度も攻めては、苦汁をなめさせられていた。
天正二年(一五七四)七月、信長は伊勢長島の一向一揆討伐のため、岐阜を出発した。三度目の攻撃である。このたび一揆側は武田や浅井の支援を得られなかったのに対して、信長のほうは当地方の水軍を支配する九鬼|嘉隆《よしたか》を味方につけ、一〇万の兵を擁していた。
前回と違い、信長は伊勢湾を海上封鎖して、持久戦の兵糧攻めに持ちこんだ。一向一揆側は、篠橋・大鳥居・屋長島・中江・長島の五カ所の城にこもって抵抗した。
八月二日、台風が襲ってきた。大鳥居にこもっていた一向一揆勢は、闇のなかを外に打って出たが、包囲していた織田軍は大砲をぶっ放して、一〇〇〇人あまりの兵を殺傷した。
運良く逃げた者たちは、長島、屋長島、中江の三つの城に入った。が、長期抗戦の準備がしてなかったので、海上からの物資が尽きて、老人子供がつぎつぎ餓死していった。
九月二九日には、長島輪中もついに力尽き、全面降伏を申し出た。信長は快く許したが、それは真っ赤な嘘だった。武器を捨てて船で輪中を出た長島の人々を、鉄砲隊の一斉射撃で迎えたのである。
激昂した一揆側は、刀を抜いて水に飛び込み、織田軍に斬りこんでいった。その数七〇〇〜八〇〇。「窮鼠猫をかむ」の言葉どおりに彼らは戦って、「留守の小屋小屋へ乱れ入り、思ふ程、支度仕り候て、それより川を越え、多芸山、北伊勢口へ、ちりぢりに罷りたり退き」、門徒の中心地の石山本願寺に命からがら辿りついたという。
のこる中江・屋長島の籠城勢については、生け捕られた者だけで二万人。信長はそれらを、一人残らず火刑に処すと宣告した。さすがの門徒らも恐れおののき、泣きわめいたり、手をあわせて命乞いする始末だった。家臣らも止めたが、信長は耳を貸さなかった。
二万人の捕虜は数珠つなぎにされて、広場に引き出された。彼らは柱に縛りつけられ、周囲に薪や柴が積みあげられて火がつけられた。吹いてきた風にあおられて、あたり一面が巨大な紅蓮の炎に包まれた。
広場には悲鳴や絶叫が鳴りひびき、二万の捕虜たちは、灼熱地獄にのたうちまわった。阿鼻叫喚のひびくなか、見物人はたちこめる悪臭と煙に、息も出来ないほどだった。まもなく一人残らず死んでいったが、刑場からは黄色い煙と悪臭がいつまでも立ちのぼったという。
本願寺の門徒らは来世を信じているから、世俗権力の支配に恐れ知らずに徹底的に抵抗する。これらの門徒を根だやしにしない限り、自分の支配が完成しないことを、信長はよく分かっていたのである。