古代以来の全羅道《チヨンラド》・慶尚道《キヨンサンド》の対立
現在の韓国が李氏朝鮮時代以来の文化を基盤としており、それ以前の時代の伝統との間に断絶のあることは確かだが、それは、古代以来の歴史体験の影響が現在に見られないということではない。むしろそれは逆だと言った方がいいかもしれない。
文化的な伝統は断絶していても、意識のパターンとか歴史体験から受けた価値観とかは、形を変えて中世、近世、現代と生き続けている。そのかっこうの例が、韓国の地域主義の問題、なかでも最も大きな対立を形づくっている全羅道と慶尚道との対立である。
この対立は、それぞれの風土からくる気質的な違いをベースにした、古代の百済と新羅の対立にはじまり、さらには両国王権の出身種族の違いもからんでいる。
韓半島南部、ナクトン川(洛東江)の東の日本海側に新羅、ナクトン川の西に伽耶、そのさらに西の黄海側に百済が位置していた。現在の全羅道は百済の、そして慶尚道は新羅の領域に入る。この両地域は正反対の風土だと言ってよい。
文化的な伝統は断絶していても、意識のパターンとか歴史体験から受けた価値観とかは、形を変えて中世、近世、現代と生き続けている。そのかっこうの例が、韓国の地域主義の問題、なかでも最も大きな対立を形づくっている全羅道と慶尚道との対立である。
この対立は、それぞれの風土からくる気質的な違いをベースにした、古代の百済と新羅の対立にはじまり、さらには両国王権の出身種族の違いもからんでいる。
韓半島南部、ナクトン川(洛東江)の東の日本海側に新羅、ナクトン川の西に伽耶、そのさらに西の黄海側に百済が位置していた。現在の全羅道は百済の、そして慶尚道は新羅の領域に入る。この両地域は正反対の風土だと言ってよい。
百済地域には高い山も少なく、なだらかな丘《きゆう》陵《りよう》が続き、平野部の土地は肥《ひ》沃《よく》で韓国有数の穀《こく》倉《そう》地帯がある。また海岸は世界的に有名なリアス式海岸で魚介類も豊富だ。さらに多島海地域であることから、航海術も古くから発達していた。
一方、新羅地域は山また山で山岳地帯が多く、平野部は狭い。また海は玄海灘《なだ》(日本では玄界灘)の荒い海であり、また島も少ない。稲作、漁労、航海術、いずれも全羅道に比較すれば充分な発展の条件を持っていない。
こうしたことから、文明はおのずと百済を中心に発達し、仏教も百済がいち早く取り入れている。したがって、本格的なヤンバンは、かつて百済の首都であった扶《フ》余《ヨ》や公州などに多かった。また、百済の王家は扶余族の出身であり、新羅の王家はかつて中国にあった韓国を統治した辰《しん》韓《かん》族と言われる。
一般に、百済文化は丸みの文化であり、新羅の文化は鋭角の文化だと言われるが、確かに百済の仏像は丸みを帯びた優しさが基調で、新羅のそれはきわめて直線的である。方言について言えば、全羅道のそれはどこか間延びした感じを与え、慶尚道のそれは少々ぎすぎすした感じを与えるとも言えるだろう。
七世紀半ばに新羅が韓半島全土を統一してからは、百済的な文化は継承・発展されることのないまま歴史に埋もれていったのである。こうした百済・新羅の対立はなくなったが、地域的な対立はそのまま現在に至るまで統いている。
新羅の後の高麗もまた新羅的な文化を消滅させた。そして次の李氏朝鮮もまた、かつての青《せい》磁《じ》を捨て去り白《はく》磁《じ》を珍重したことでもわかるように、前代の文化の継承・発展には興味を示さなかった。
李氏朝鮮の建国された一三九二年と言えば、日本ではちょうど南北朝の統一の年にあたり、室町時代の出発に重なる。韓半島の封建時代はここにはじまるわけだが、それが政権交代も目立った社会変革もなく、そのまま五一九年間も続き、そこからダイレクトに近代に突入してしまったところに、これまで論じてきたさまざまな問題のほとんどすべてが由来している。
一方、新羅地域は山また山で山岳地帯が多く、平野部は狭い。また海は玄海灘《なだ》(日本では玄界灘)の荒い海であり、また島も少ない。稲作、漁労、航海術、いずれも全羅道に比較すれば充分な発展の条件を持っていない。
こうしたことから、文明はおのずと百済を中心に発達し、仏教も百済がいち早く取り入れている。したがって、本格的なヤンバンは、かつて百済の首都であった扶《フ》余《ヨ》や公州などに多かった。また、百済の王家は扶余族の出身であり、新羅の王家はかつて中国にあった韓国を統治した辰《しん》韓《かん》族と言われる。
一般に、百済文化は丸みの文化であり、新羅の文化は鋭角の文化だと言われるが、確かに百済の仏像は丸みを帯びた優しさが基調で、新羅のそれはきわめて直線的である。方言について言えば、全羅道のそれはどこか間延びした感じを与え、慶尚道のそれは少々ぎすぎすした感じを与えるとも言えるだろう。
七世紀半ばに新羅が韓半島全土を統一してからは、百済的な文化は継承・発展されることのないまま歴史に埋もれていったのである。こうした百済・新羅の対立はなくなったが、地域的な対立はそのまま現在に至るまで統いている。
新羅の後の高麗もまた新羅的な文化を消滅させた。そして次の李氏朝鮮もまた、かつての青《せい》磁《じ》を捨て去り白《はく》磁《じ》を珍重したことでもわかるように、前代の文化の継承・発展には興味を示さなかった。
李氏朝鮮の建国された一三九二年と言えば、日本ではちょうど南北朝の統一の年にあたり、室町時代の出発に重なる。韓半島の封建時代はここにはじまるわけだが、それが政権交代も目立った社会変革もなく、そのまま五一九年間も続き、そこからダイレクトに近代に突入してしまったところに、これまで論じてきたさまざまな問題のほとんどすべてが由来している。