日本が多神教の伝統をひいているなら韓国もそうではないかと言われる。確かにそうだ。しかし、韓国には日本の神社や神道というクッション(媒介)がないため、日本のように、多神教の持つエネルギーを現代市民社会のより高度な発展へと向かう力に変えることがいまだできていない。
沖縄などに見られる巫《ふ》女《じよ》が行なう祭のように、シャーマン(韓国ではムーダン)が神を降ろして行なう祭を韓国ではグッという。古くは国のグッ、村のグッがあり、制度的な力もあった。現在でも法事のときなどに行なうこともあるが、戦後禁止されたこともあって、急速な近代社会の発達とともに力が衰え、市民社会からはかえって排除される対象となってしまっている。
そのように、韓国の多神教の伝統は、日本のようにクッションを通して市民社会の無意識層に浸透しているものではなく、市民社会とは別個に、田舎、あるいは前近代的な場においてだけ、各地に細々と生きているに過ぎない。この点、日本とは大きく事情が異なっている。
韓国のシャーマニズムは、最も一般に浸透している儒教にもキリスト教にも彩りを与えているが、日本では、シャーマニズムを神道という形に整え、それを器としてさまざまな宗教を受け入れてきている。その点、神道はまさしく「受け身の宗教」なのである。
韓国は儒教、キリスト教という外来の器に自前のシャーマニズムを流し込んでゆくが、日本は神道という自前の器に外来の宗教を受け入れ飲み込んでしまうのである。