世間には一人で食事をすることができない人がいる。私の友人知人……とりわけ男性にはそんな人が多い。駅前の立食い蕎麦はいいとしても、レストランに一人で入るなんて、もっての外。最悪なのは、休日の夜、自宅で自分でメシを作って一人で食べること……なんて言う人もいる。
一方、女友達の中には、結構、ひょいひょいと一人でレストランに入り、気にいったメニューを選んで贅沢《ぜいたく》な一人の時間を味わったりする人が多い。甘いものが食べたくなったら、仲間がいなくても、好みのケーキ屋などに入って行く。まして、休日の夜、自宅で料理を作り、化粧を落として、たった一人、のんびりTVなど見ながら食事することを「最悪のこと」などと言う人とはお目にかかったことはない。結婚して子供がいればなおさらのこと、たまに一人で食事をするのは最高の贅沢だ、とさえ言う人もいる。
私も一人で食事をするのは好きである。あまり親しくもない、かといって無愛想にしているわけにもいかないような人を相手に気取ったレストランで食事をするくらいなら、一人で納豆かけ御飯を食べていたほうが百倍おいしい。
男社会の熾烈《しれつ》な戦いをくぐり抜けてきて、知らず知らずのうちに男性が幼児的なまでもの寂しがりやになってしまったのか、あるいは、もともと男のほうがつるんで行動しやすいところがあるのか、正確なところはわからない。だが、食事をする、という行為はきわめて本能的なものである。その剥《む》き出しの本能を恥ずかしがるあまり、会話などで場つなぎをしたがる気持ちがあるのだとしたら、それは私にも理解できなくはない。
例えば列車の中などで、たった一人、弁当を拡げる時、意外にも勇気がいることを御存知だろうか。私はかつて、仕事で新幹線に乗った時、三人の中年男女に周囲の席を囲まれたことがあった。
三人連れの仲のよさそうな一行に、すみません、ここの席を四人掛けにしてもよろしいでしょうか、と言われれば、いやだと断るわけにもいかない。にこにこして「いいですよ」と答えたものの、いざ、席についてみると、その居心地の悪さは想像以上。私のまわりを囲んだ二人の中年女性と一人の中年男性は、互いに遠い親類同士であるらしく、矢継ぎ早にお喋《しやべ》りを始める。何やらいささか深刻な話だ。田舎の誰それが亭主とうまくいってない、だの、その亭主がいかにひどい男だったか、だのと、三人はそれぞれ溜め息まじりに眉をひそめる。
車内でゆっくり食べようと思って買って来た弁当が目の前でちらちらする。朝食抜きで来たものだから、十二時を過ぎるあたりから猛烈にお腹が減ってくる。
なのに、一行はまるで食事に無関心。車内販売が弁当を売りに来ても、いっこうに立ち上がる様子はなく、おまけにお菓子を食べ始める気配もない。
何を遠慮することがあるの、この人たちと自分とは他人同士。一人で食べ始めたっていいじゃない、と自分に言いきかせるのだが、三人の見知らぬ男女に囲まれて、たった一人、弁当を拡げる勇気がどうしても湧いてこない。で、結局、私は大阪に着くまで弁当を食べられず、ホテルまで持って行って、一人こそこそと冷たくなった幕の内を拡げる、という馬鹿なことをしたのであった。
かつて学校のお昼の時間に、弁当箱を恥ずかしそうに、抱えこむようにして食事する癖のある子供は一クラスに十人はいた。弁当の中身が何であれ、自分だけはあんな卑屈な食べ方は絶対にしない、と固く心に誓い、正々堂々と弁当を拡げて食べることにしていた私の中にも「食欲を満たす」という行為に関して、照れ、あるいは恥じらいがあるのは事実である。
先日、上野から信越線に乗った時のこと。隣に乗り合わせた上品な感じのする初老の紳士は、私が駅で買ったのと同じ「大江戸太鼓」という幕の内をそっと窓の脇に置いた。私は、このおじさんが食べ始めたら、自分も食べよう、と思っていたのだが、彼もまた、同じことを思っていたらしい。夜の八時過ぎだというのに、彼はいっこうに食べ始める気配がない。ははん、なるほど、このおじさんも恥ずかしがっているんだな、と思った私は、高崎を過ぎるあたりから、おもむろに「大江戸太鼓」の包みを開いた。おじさんは待ってました、とばかりに週刊誌を閉じ、自分の「大江戸太鼓」を開き始めた。そして私たちは互いに前を向きながら、シャケの切身をつつき、煮物を頬張り、食べ終えるころには、なんだか無言のうちにすっかり仲良くなったような気がしたのであった。