先日、御飯を食べながら何気なく見ていたニュースで、何かの昆虫がオス一匹五万円で売られることになった、というのを聞いた。へえ、ずいぶん珍しい昆虫がいるんだな、一匹五万なのだから、アフリカの果てあたりでしか見られない虫なのかもしれない、と思ったのだが、よく聞いてみると、それは「クワガタ」の話。私は思わず、食べていたガンモドキを丸呑みしそうになった。
この春から住み始めた軽井沢の山の上には、ちゃんとクワガタが生きている。最近では、巨大なオスのクワガタが三匹、わが家の外壁に張りついていたりする。三匹だから十五万円。わが家の外壁にはいつも一万円札が十五枚、張りついている、という計算になり、そう考えると何だか不思議な感じがする。
梅雨空が続いて元気がなくなった時は、近くの木にハチミツを塗ってそこに移動させてやる。すると彼らはせっせとミツを吸い、翌日には元気になっている。毎朝、彼らに「元気?」などと挨拶《あいさつ》し、玄関の掃除などをするのも、また都会では味わえない楽しさである。
都会の少年たちが聞いたら、ヨダレを流して羨ましがることだろう。ありがたいことに、ここにはそうした自然がまだまだ残っている。
但し、一匹五万円で売られるクワガタがいるところには、反面、お目にかかるのを遠慮したいコワイ虫もたくさんいる。まず代表格がムカデ。これはコワイ。一発、手を刺されると、腕全体がラグビーボールみたいに腫《は》れる。運悪く頸《けい》動脈あたりを刺されたら、ショックで意識不明になるとも聞いている。
この虫は夜になると活動して家の中に入って来るから、ますます油断できない。見つけたら、ただちに金槌《かなづち》のようなもので頭を潰すか、さもなくば燃やしてしまうかしないといけないらしい。
引っ越してまもなく、深夜、わが家の猫が暖炉あたりで短い紐《ひも》のようなものを相手に興奮しているので、何を見つけたのだろう、と思って見てみると、それがムカデであった。
「母は強し」ならず「飼い主は強し」であり、私は猫がムカデの怖さを知らずにじゃれついて、鼻の頭を刺されたりしたら大事だ、と思うあまり、片手で猫を取り押さえ、残った手でティッシュをつかんで、ムカデをバシバシと叩き殺したのであった。
後でその話をすると、ムカデに詳しい人から「そんなこと二度としてはいけない」と諭された。奴さんは相当、頑強で、復讐心《ふくしゆうしん》が激しく、ティッシュを通してチクリとやることもあるんだそうだ。ゾーッ。
ムカデと同様にコワイのが蜂。蜂の一刺しは強烈で、ことに山にいる蜂は獰猛《どうもう》なやつが多い。スズメバチともなると、これは人間に死をもたらす毒を持っていらっしゃるわけで、近寄らないのが一番だが、それでも洗濯物の中にまぎれこんでいる可能性もあり、洗濯物を取り込む時は、細心の注意をはらってパジャマのズボンの中、靴下の裏側まで覗《のぞ》いてみなければならない。
あとはヒルとか、毒蛾《どくが》とか、まあ、都会では信じられないような虫のオンパレード。雨あがりの夕方、近くの木立でヒルを見つけた時は、背筋が寒くなった。あれは一見して、ベチョッとしたコールタールみたいに見えるものなのですね。
今でこそ、知ったふうなことを言っているが、何を隠そう、私は大の虫嫌い。引っ越して来た当初は、小さな豆粒みたいな蛾が飛び込んで来ただけでも、ギャーギャー騒ぎ、床にコオロギのか細い足が一本、抜け落ちているのを見つけただけでも、その足を掃除機で吸い取るありさまだった。
だが、慣れるということは凄いことだ。今では窓に張りついた親指大の蛾だってティッシュで難なく捕まえるし、デッキで洗濯物を干す時は、蜂がいない時を見計らって手早く干す癖もついた。地下室の片隅に聞きなれぬガサゴソという音を聞けば、勇気を出して正体を見極めることもできるようになった。
あたりまえのようだが、自然の中に住んでいると、一匹五万円のクワガタなど買わずにすむ。だが、同時に、そこに住む虫たちともうまくつき合っていくことを要求される。最近、私の中には、虫たちと同じ大地を共有している、という謙遜《けんそん》した気持ちがフツフツと湧き始めているようだ。だから無駄な殺生はしない。巨大なコオロギや蛾を見つけたら、通称「虫取りコップ」を用意して、コップの中に生け捕りにし、窓から外に放ってやる。「虫愛でる姫君」ならず、「虫愛でるオバサン」というところか。