彼女はその中に立ちすくんでいる。
どこからか高く澄んだ音色で、滴《しずく》が水面をたたく音がしていた。ほそい音は闇にこだまして、まるでまっくらな洞窟《どうくつ》の中にでもいるようだが、そうでないことを彼女は知っていた。闇は深く、広い。その天もなく地もない闇の中に、薄く紅蓮《ぐれん》のあかりがともった。闇のかなたに炎でも燃えさかっているように、紅蓮の光は形を変え、踊る。
赤い光を背にして無数の影が見えた。異形《いぎょう》の獣の群れだった。
こちらはほんとうに踊《おど》りながら、あかりのほうから駆けてくる。猿《さる》がいて鼠《ねずみ》がいて鳥がいる。さまざまな種類の獣の姿をしていたが、どの獣もどこかがすこしずつ図鑑で見る姿とはちがっていた。しかもそのどれもが、実際の何倍も大きい。赤い獣と黒い獣と青い獣と。
前肢《まえあし》をふりあげ、小走りに駆ける。あるいは跳躍し、宙を旋回し、まるで陽気な祭の行列でも近づいてくるようだった。陽気といえば陽気には違いなく、祭といえば祭にはちがいない。
異形の者たちは犠牲者をめがけて走っているのだ。生《い》け贄《にえ》を血祭りにあげる歓喜に、小躍りしながら駆けてくる。
その証拠に殺意が風のように吹き付けてきていた。異形の群の先頭まで、もう四百メートルもない。どの獣も大きく口を開けて、声はいっさい聞こえなかったが、歓声を上げているのだと表情でわかる。声もなく足音もなく、ただ洞窟で水がしたたるような音だけがつづく。
彼女は駆けてくる影をただ目を見開いて見つめていた。
──あれが、来たら殺される。
そう理解できても、身動きできない。おそらくは八《や》つ裂《ざき》にされ、喰《く》われるのだろうと思ったが、まったく体が動かなかった。たとえ体が動いたにしても、逃げる場所もなく戦う方法もない。
体の中で血液が逆流する気がする。その音が耳に聞こえるような気がする。それはひどく潮騒《しおさい》に似ていた。
見つめるあいだに、距離は三百メートルに縮まった。
陽子《ようこ》は飛び起きた。
こめかみを汗がつたう感触がして、目に強い酸味を感じる。あわてて何度もまばたきをして、そうしてやっと深い息をついた。
「夢……」
声に出したのは確認しておきたかったからだった。ちゃんと確認をして、自分に言い聞かせていないと不安になる。
「あれは、夢なんだ」
夢に過ぎない。たとえそれが、このところひと月にわたって続いている夢だろうと。
陽子はゆっくりと首をふる。部屋のなかは厚いカーテンのせいで暗い。枕元の時計を引き寄せてみると、起きる時間にはすこし早かった。体が重い。手を動かすのにも足を動かすのにも粘《ねば》りついたような抵抗を感じた。
あの夢をはじめてみたのはひと月ほど前だった。
最初はたんなる闇でしかなかった。高くうつろに水滴の音がして、まっくらな闇のなかに自分がただ一人でたたずんでいる。不安で不安で動きたくても身動きができない。
闇の中に紅蓮《ぐれん》のあかりが見えたのは、同じ夢が三日続いた後だった。夢のなかの陽子は、あかりのほうから怖《こわ》いものが来ることを知っていた。ただ闇のなかに光がある、それだけの夢に悲鳴をあげて飛び起きて、それを五日も続けたころに影が見えた。
最初は赤い光のなかに浮かんだシミのように見えた。何日か同じ夢を見るうちに、それが近づいてくるのだとわかった。それがなにかの群れだとわかるまでに数日がかかり、異形の獣だとわかるまでにさらに数日を要した。
そうして、と陽子はベッドの上のぬいぐるみを引きよせた。
──もうあんなに近い。
ひと月をかけて地平線からの距離を連中は駆けぬける。おそらく明日か、明後日には陽子のそばにたどりつく。
──そうしたら、自分はどうなるのだろう。
そう考えて陽子は頭をふった。
──あれは夢だ。
たとえひと月続いていても、ましてや日ごとにすすむ夢でも、夢は夢でしかないはずだ。
言い聞かせても不安は胸を去らない。鼓動は速くて、耳の奥で血液が駆け巡る潮騒のような音がしている。荒い呼吸がのどを灼《や》いた。しばらくのあいだ陽子は、すがるようにしてぬいぐるみを抱きしめていた。
寝不足と疲労で重い体をむりに起こして、制服に着がえて下に下りた。なにをするのもひどくおっくうで、おざなりに顔を洗ってダイニング・キッチンに行く。
「……おはよ」
流しにむかって朝食の用意をしている母親に声をかけた。
「もう起きたの? 最近早いのね」
母親は言って陽子をふりかえる。チラリと投げられた視線が陽子に止まって、すぐに険《けわ》しい色になった。
「陽子、また赤くなったんじゃない?」
一瞬、なんのことを言われたのかわからずに陽子はきょとんとし、それからあわてて髪を手で束《たば》ねた。いつもならきっちり編んでからダイニングに顔を出すのだが、今朝《けさ》は眠る前に編んだ髪をほどいて櫛《くし》を入れただけだった。
「ちょっとだけ染めてみたら?」
陽子はただ頭をふった。ほどけた髪がふわふわと頬《ほお》をくすぐった。
陽子の髪は赤い。もともと色が薄いうえに、日に焼けてもプールに入ってもすぐに色が抜けてしまう。背中まで髪を伸ばしているが、伸ばすと毛先の色がぬける。おかげでほんとうに脱色したような色になってしまっていた。
「でなきゃ、もっと短く切る、とか」
陽子は無言でうつむく。うつむいたまま大急ぎで髪を編んだ。きっちり三つ編にすると、すこしだけ色が濃く見える。
「誰に似たのかしら……」
母親は険しい顔でためいきをついた。
「このあいだ、先生にも聞かれたわよ。ほんとうに生まれつきなんですか、って。だから染めてしまいなさい、って言ってるのに」
「染めるのは禁止されてるから」
「だったらうんと短く切れば? そうしたら、すこしはめだたなくなるわよ」
陽子はうつむく。母親はコーヒーを入れながら、冷たい口調でつづけた。
「女の子は清楚《せいそ》なのがいちばんいいのよ。目立たず、おとなしくしてるのがいいの。わざわざ目立つよう、はでな格好をしているんじゃないか、なんて疑われるのは恥ずかしいことよ。あなたの人間性まで疑われてる、ってことなんだから」
陽子は黙ってテーブルクロスを見つめる。
「その髪を見て不良だと思うひともいると思うの。遊んでる、っておもわれるのもいやでしょ。お金をあげるから、帰りに切ってらっしゃい」
陽子はひそかにためいきをつく。
「陽子、聞いてるの?」
「……うん」
答えながら窓のそとに目をやった。ゆううつな色の冬空が広がっていた。二月なかば、まだまだ寒さは厳しい。