声といっしょにかすかに海の匂いがした。
担任が不審そうに陽子の背後を見て、それで陽子もふりかえる。
陽子のうしろには若い男が立っていた。まったく見覚えのない顔だった。
「あなただ」
男はまっすぐ陽子を見て言う。年は二十代後半といったところだろう。ぽかんとするくらい奇妙な男だった。裾《すそ》の長い着物に似た服を着ている。能面のような顔に髪を膝裏《ひざうら》に届くほど長く伸ばして、それだけでも尋常《じんじょう》でなく奇妙だというのに、その髪がとってつけたように薄い金色をしている。
「誰だ、君は」
担任がとがめるように聞く。男はそれを気にしたふうもなく、さらにあぜんとするようなことをやってのけた。陽子の足元に膝をついて、深く頭を下げたのだ。
「……お探し申しあげました」
「中嶋、おまえの知りあいか?」
担任に聞かれ、ぽかんとしていた陽子はあわてて首をふった。
「ちがいます」
あまりに異常な事態に、陽子はもちろん、担任もうまく反応ができないようだった。困惑した気分で見つめていると、男は立ち上がる。
「どうか私とおいでください」
「はぁ……?」
「中嶋、なんなんだ、こいつは」
「わかりません」
聞きたいのは陽子のほうだった。救いを求めて担任を見る。職員室に残っていたほかの教師たちがけげんそうに集まってきていた。
「なんだ、おまえは? 校内は関係者以外は立ち入り禁止だぞ」
担任がやっとそれに思い至ったように強く言うと、男は無表情に教師を見返す。すこしも悪びれたところがなかった。
「あなたには関係がない」
冷たく言って周囲に集まった教師たちを見わたす。
「あなた方もです。さがりなさい」
あまりにも居丈高《いたけだが》な物言いに誰もがまず驚いている。同じように驚くばかりの陽子を男は見すえた。
「事情なら、おいおい説明いたします。とにかく私とおいでください」
「失礼ですけど」
誰なんですか、と陽子が聞きかけたとき、ふいに間近で声が響いた。
「タイホ」
人を呼ぶ語調の声に男が顔をあげる。この奇妙な男の名前なのかもしれない。
「どうした」
眉《まゆ》をひそめて男が問い返した方向にはしかし、声の主は見当たらなかった。どこからともなく再び声が響いた。
「追っ手が。つけられていたようです」
能面のような顔が急に険《けわ》しい表情になった。ただうなずいて陽子の手首をつかむ。
「失礼を。──ここは危険です。こちらへ」
「……危険、って」
「説明をする余裕はありません」
ぴしゃりといわれて陽子は思わず身をすくめる。
「すぐに敵が来ます」
「……敵?」
なんとはなしに不安を感じて問い返したときだった。もう一度近くで声がした。
「タイホ、来ました」
見回したけれど、やはり声の主の姿は見えない。教師たちが何かを言いかけるのと同時だった。
──裏庭側の窓ガラスが割れたのは。