砕《くだ》け散ったガラスの破片が鋭利な光を弾《はじ》いて水平に殺到してくる。
とっさに目を閉じ、腕をあげて顔をそむけた。その腕に、顔に体に小さな痛みが吹きつけてくる。すさまじい音がしたはずだが、陽子の耳には届かなかった。
小石のぶつかるような感触が絶えたことを確認して目を開けると、教室はガラスの破片で光を撒《ま》いたように見えた。集まってきた教師たちがその場にうずくまっている。陽子の足もとには担任が身を伏せていた。
大丈夫ですか、と問いかけて、彼の体には無数の破片が刺さっているのを発見する。教師たちがあげているうめき声がようやく陽子の耳に入った。
陽子はとっさに自分の体を見おろす。担任の脇に立っていたにもかかわらず、陽子の体には傷ひとつなかった。
ただ驚くしかない陽子の足を担任がつかんだ。
「おまえ……なにをしんたんだ」
「あたしは、なにも」
その血だらけの手を引きはがしたのは男だった。
「行きましょう」
この男も無傷だった。
陽子は首を横にふる。ついてけいばほんとうに仲間だと思われてしまう。それでも手を引かれるままつい足を動かしてしまったのは、その場に残るのが恐ろしかったからだった。敵が来る、という言葉には現実感がない。それよりも怪我人《けがにん》だらけで血の臭いのたちこめた、この場所にとどまっていることが怖かった。
職員室を飛び出したところで駆けつけてきた教師に会った。
「どうした!?」
初老の教師は怒鳴り、陽子の脇にいる男に目をとめて眉《まゆ》をひそめる。陽子がなにを言うよりも早く、男が手を上げて職員室を示した。
「手当てを。怪我人がいる」
それだけを言って陽子の手を引く。背後で教師がなにかを叫んだが、なんと言ったのかはわからなかった。
「どこへ、行くんですか」
陽子が声をあげたのは、男が階段を下りようとせず上がろうとしたときだった。この場をとにかく逃げ出して家に帰りたかった。そう意図して階下を指さす陽子の腕を、男は上に向かって引く。
「そっちは屋上……」
「いいから、こちらへ。そちらからは人が来る」
「でも」
「我々が行くとかえって迷惑をかける」
「迷惑、って」
「無関係な物をまきこむことをお望みか」
男は屋上へ通じるドアを開く。強く陽子の手を引いた。
無関係な者をまきこむということは、陽子は無関係ではないということなのだろうか。男が言った「敵」とは、いったいなんだろう。聞きたかったが、なんとなく気後《きおく》れがした。
手を引かれるまま、なかばよろめくようにして屋上へ出たとき、背後から奇声がとどろいた。
錆《さ》びた金具がたてたような声に、陽子は背後に視線を走らせる。今出てきたばかりのドアの上に影が見えた。
茶色の翼。毒々しい色合いの曲がった嘴《くちばし》が大きく開かれて、興奮した猫のような奇声をあげている。
両翼の先までが五メートルはあろうかという巨鳥だった。
──あれは。
からめとられたように身動きができなかった。
──あれは、夢のなかの。
建物の屋根から、奇声といっしょに濃厚な殺意が降ってくる。夜をむかえはじめた曇天《どんてん》の空は暗い。大きな襞《ひだ》をみせる雲に、どこからかもれた夕陽がかすかに赤い光を投げていた。
鷲《わし》に似たその鳥には角《つの》があった。首をふり、大きく一度|羽《は》ばたきすると、いやな臭気のする風が圧力をもって吹きつけてきた。夢と同じように、陽子はそれをただ見ていた。
巨鳥の身体が舞いあがる。ごくかるく浮きあがると、宙でもう一度羽ばたきし、そうして急に翼の角度を変えた。
急降下してくる態勢だ、と陽子は呆然《ぼうぜん》と思った。太い脚が陽子をまっすぐに示している。茶色の羽毛におおわれた脚には、圧倒されるほど太く鋭い鉤爪《かぎづめ》が見えた。
陽子が立ち直るひまもなく、鳥の身体が落下してくる。悲鳴をあげることさえできなかった。
陽子の目は見開かれたままだったが、なにも見ていなかった。それで肩に鈍い衝撃が当たったときにも、それが自分を引き裂く鉤爪のせいなのだとすんなり納得した。
「ヒョウキ!」
どこからか声が響いて、目の前に暗い赤い色が流れた。
──血だ……。
そう思ったが、不思議にさほどの痛みは感じなかった。
陽子はようやく目を閉じる。想像していたよりも楽そうだ、と思った。死ぬことはもっと恐ろしいことだと思っていたのだけれど。
「しっかりなさい!」
強い声の主に肩をゆすられて、陽子は我に返った。
男が顔をのぞきこんでいた。背中にコンクリートの感触がして、左の肩にフェンスの堅い感触が食いこんでいる。
「自失している場合ではない!」
陽子は跳ね起きた。立っていたはずの場所から、かなり遠い場所に陽子は転がっている。
奇声が響いて、ドアの前で巨鳥が翼をふっているのが見えた。
羽ばたくたびに圧力のある風が吹く。鉤爪は屋上のコンクリートをえぐっていた。爪が深く床に食いこんで鳥は身動きがとれないようだった。
いらだったように大きく首をふる。その首に赤い獣が喰らいついているのが見えた。暗い赤の毛並みにおおわれた豹《ひょう》のような獣だった。
「……なに」
陽子は悲鳴をあげた。
「なんなの、あれは!」
「だから危険だと申しあげたのに」
男は陽子を引き起こす。陽子は一瞬だけ男と鳥を見くらべた。
鳥と獣はもつれ合うようにして競《せ》り合いを続けている。
「カイコ」
男の声に呼ばれたように、コンクリートの床から一人の女が現れた。まるで水面に浮かびあがってくるように羽毛におおわれた女の上半身が現れる。
女は鳥の翼のようなその腕に一本の剣を抱いていた。宝剣、といっていいような優美な鞘《さや》の剣だった。柄《つか》は金、鞘にも金の装飾がある。宝石らしい石を散らし、玉飾《たまかざ》りをつけたその剣はとうてい実用に耐えるようには見えない。
男は女の腕から剣を取りあげる。手にとったそれをまっすぐ陽子に突きつけた。
「……なに」
「あなたのものです。これをお使いなさい」
陽子はとっさに男と剣を見くらべた。
「……あたしが? あなたじゃなくて?」
男は不快げな顔をして剣を陽子の手に押しこんだ。
「私には剣をふるう趣味はない」
「こういう場合、あなたがそれで助けてくれるんじゃないの!?」
「あいにく剣技を知らない」
「そんな!」
手のなかの剣は見かけよりも重い。とうていふりまわせるとは思えなかった。
「あたしだって知らない」
「おとなしく殺されてさしあげるおつもりか」
「いや」
「ではそれをお使いなさい」
陽子の頭のなかは混乱の極致にあった。殺されたくない、という思念だけが強い。
だからといって剣をふりかざして戦う勇気はない。そんな力や技量があるはずがない。剣を使えという声と、使えるはずがないという声と、両極の声が陽子に第三の行動をとらせた。
つまり、剣を投げつけたのだ。
「なにを──おろかな!」
男の声には驚愕《きょうがく》と怒りとが混じっている。
鳥をめがけて陽子が投げた剣は、目標に届きもしなかった。打ちふるう翼の先をわずかにかすめて巨鳥の足元に落ちる。
「まったく。──ヒョウキ!」
舌打ちするのが聞こえそうな声だった。
男の声に鳥の翼に爪をたてていた暗赤色の獣が離れる。離れざま身をかがめて落ちた剣をくわえると、矢のように陽子のほうへと駆け戻ってくる。
剣をうけとりながら男は獣に問う。
「持ちこたえられるか」
「なんとか」
驚いたことに返答したのは、まぎれもなくヒョウキと呼ばれた暗赤色の獣だった。
頼む、と短く言って男はだまってひかえていた鳥のような女に声をかける。
「カイコ」
女がうなずいたとき、細かな石が飛んできた。
巨鳥が爪を抜いてコンクリートの飛沫《ひまつ》があがったところだった。
舞いあがろうとする巨鳥に赤い獣が跳びつく。いつの間にか全身を現して宙に舞い上がっていた女がそれに加わった。女の脚は人そのもの、ただし羽毛におおわれて、さらに長い尾がある。
「ハンキョ。ジュウサク」
男に呼ばれて女が現れたのと同じように、二頭の大きな獣が現れた。一方は大型犬に、一方は狒狒《ひひ》に似ている。
「ハンキョ、ここは任せる。ジュウサク、この方を」
「御意《ぎょい》」
二頭の獣は頭を下げた。
うなずき返し、男は背を向ける。ためらいのない動きでフェンスに歩み寄ると、するりと姿をかき消した。
「……そんな! 待って!」
叫んだときだった。狒狒に似た獣が腕を伸ばした。
陽子の身体に手をかけ、有無を言わさず抱え込む。陽子はとっさに悲鳴をあげた。それを無視して狒狒は陽子を小脇に抱える。その場を蹴ってフェンスの外に跳躍した。