陽子がその乱暴な運送から開放されたのは街はずれの海岸、港に面した突堤の上だった。
狒狒は抱えた陽子を地面におろし、陽子が息をついているあいだに一言もなく消えうえせた。どこへ消えたのかと周囲を見渡していると、積みあげられた巨大なテトラポッドのあいだからすべり出るようにして宝剣をさげた男の姿が現れた。
「ごぶじか」
聞かれて陽子はうなずく。眩暈《めまい》がするが、これは狒狒の跳躍に酔ったせい、そうして次々におこる常識はずれのできごとのせいだと自覚していた。
足腰がなえてその場に座りこむ。意味もなく涙がこぼれた。
「お泣きになっている場合ではない」
陽子はいつの間にか|傍ら《かたわ》に膝をついた男を見た。いったいなにがおこったのか。問うように男を見あげたが、男には説明する気がないようだった。
陽子は目を伏せる。男の態度はあまりにもそっけなくて、あえて質問をする勇気が出ない。それで震える手で膝を抱いた。
「……怖かった」
つぶやいた陽子に、男は強い口調で吐き捨てるように言う。
「なにを悠長なことを言っておられる。じきに追ってくる。ゆっくり息を整えている猶予《ゆうよ》はないのですよ」
「追って……くる?」
驚いて見あげると、男はうなずく。
「あなたがお斬《き》りにならなかったのだから、しかたない。ヒョウキたちが足止めをしているが、おそらくそんなにはもたないでしょう」
「あの鳥のこと? あの鳥はなんだったの?」
「コチョウ」
「コチョウって?」
男は軽蔑《けいべつ》したような目つきをした。
「あれのことです」
陽子は身をすくめる。そんな説明ではわからない、という抗議は声にならなかった。
「あなたは、誰なんですか? どうして助けてくれたんですか?」
短く言ったきり、それ以上の説明はない。陽子はかるくためいきをついた。タイホというのが名前ではないの、と聞きたかったが、とうてい聞けるようなムードではなかった。
こんな得体《えたい》の知れない男の前から逃げ出して家に帰りたかったが、教室に鞄《かばん》とコートをおいたままだった。とうていひとりで取りに戻る気にはなれないが、かといってこのまま家に帰るわけにもいかない。
「──もうよろしいか?」
とほうにくれた思いでうずくまっていると、唐突にそう聞かれた。
「よろしい、って」
「もう出発してもよろしいか、とお聞きした」
「出発ってどこへ?」
「あちらへ」
あちら、というのがどこなのか、陽子にはまったくわからなかった。ただほぼんやりしている陽子の手を男がつかんだ。腕を引かれて、これで何度目だろう、と思った。
どうしてこの男は満足な説明もなしに、陽子になにかを強制しようとするのだろう。
「……ちょっと待ってください」
「そんなひまはない」
男はいらだった口調で言う。
「じゅうぶんお待ち申しあげた。これ以上の余裕はない」
「それは、どこなんですか? どれくらいの時間がかかるの」
「まっすぐに行けば、片道に一日」
「そんな、困ります」
「なにを」
とがめるように言われて、陽子をうつむく。とりあえずいってみようと思うには、男はあまりにも得体がしれない。
片道に一日というのも陽子にとっては論外の数字だった。両親になんと言って家を空《あ》ければよいのか。頭の固い両親が、陽子のひとり旅など許すはずがない。
「……困ります」
なんだか泣きたかった。なにひとつ陽子にはわからない。男はなにも説明してはくれない。それなのに、こんなむりな要求を怖い顔でつきつけるのだ。
泣けばまた叱られるだろうから、必死で涙をこらえた。
ひたすら膝を抱いてだまりこんでいると、突然またあの声が響いた。
「タイホ」
男は空を見あげる。
「コチョウか」
「はい」
ぞっ、と陽子の背筋を悪寒《おかん》が走った。あの鳥が追ってきたのだ。
「……助けてください」
男の腕をつかむと、男は陽子をふりかえる。手にさげた剣を突きつけた。
「命がおしければ、これを」
「でもあたし、こんなの使えません」
「これはあなたにしか使えない」
「あたしには、むりです!」
「ではヒンマンをお貸しする。──ジョウユウ」
呼ばれて地面から男の顔が半分だけ現れた。
岩でできたような、顔色の悪い男で、くぼんだ目が血のように赤い。
するりと地中から抜け出したその首の下には身体がなかった。半透明のゼリー状のものがくらげのようにまといついているだけだ。
「……なに!?」
小さく悲鳴をあげた陽子をよそに、それは地中からすべり出る。まっすぐ陽子に向かって飛んできた。
「いや!」
逃げようとした陽子の腕をケイキがつかむ。
逃げ出すに逃げ出せない陽子の首のうしろに、ごとんと重いものが乗った。あの首が乗ったのだとわかった。冷たいぶよぶよとしたものが制服の衿《えり》の中へもぐりこんでくるのを感じて、陽子は悲鳴をあげた。
「いや! とって!」
つかまれていない片腕をめちゃくちゃにふって、背中のものを払い落とそうとするとケイキがその腕までもつかむ。
「やめて! いや!!」
「聞き分けのない。おちつかれよ」
「いや! いやだってば!!」
冷えた糊《のり》のようなものが背中から腕を這《は》う。同時に首のうしろに強くなにかが押しつけられるのを感じて、陽子はひたすら悲鳴をあげた。
膝が崩れて座りこみ、がむしゃらに男の腕をふりほどこうと身をよじって、腕が自由になるや、勢いあまってその場に転ぶ。なかばパニックをおこしながら両手で首のうしろを払ったときには、もうなんの手ごたえもなかった。
「なに? なんなの!?」
「ジョウユウが憑依《ひょうい》しただけです」
「憑依って」
陽子は身体中を両手でこする。身体のどこにも、あのいやな感触はない。
「剣の使い方はジョウユウが知っている。これをお使いなさい」
そう冷淡に言って男は剣をさしだす。
「コチョウは速い。あれだけでも斬っていただかねば、追いつかれる」
「あれ……だけ?」
だけ、ということはほかにも追ってくるものがあるということだろうか。あの夢のなかの光景のように。
「あたし……できない。それより、さっきのジョウユウとかヒンマンとかいうばけものは、どこへ行ったの」
男は答えずに空を見あげる。
「来た」