そのなかにボンヤリとした光がある。陽子の座った場所から二メートルほどの地点。下草の中から薄青《うすあお》い燐光《りんこう》を放つものがのぞいている。
それを見すえて陽子はかすかに息を飲んだ。
鬼火《おにび》のように光る毛並みを持った、一匹の猿《さる》だった。丈の高い雑草のあいだから首だけを出して、陽子のほうを見ながらあざ笑うように歯茎《はぐき》をむき出しにしている。
猿はきゃらきゃらと耳に刺さる音で笑った。
「喰われてしまえば、一瞬だったのにサァ」
陽子は巻きつけた制服のあいだから剣を抜き出す。
「……あなた、なに?」
猿はさらに高く笑う。
「オレはオレさァ。バカな娘だよ、逃げるなんてヨォ。あのまま喰われてれば、つらい思いをせずにすんだのになァ」
陽子は剣を構える。
「何者、なの?」
「オレはオレだってば。あんたの味方さァ。あんたにいいことを教えてやろうと思ってな」
「……いいこと?」
猿の言葉は鵜《う》のみにできない。ジョウユウが緊張する様子を見せないので敵ではないのだろうが、怪しげな見かけからしても、とうていまっとうな生き物とは思えなかった。
「おまえ、帰れねえよ」
あっさり言われて陽子は猿をにらみつけた。
「黙んなさいよ」
「帰れねえよ。ぜったいムリだ。そもそも帰る方法なんか、ねえのさ。──もっといいことを教えてやろうか?」
「聞きたくない」
「教えてやるってばさ。おまえ、だまされたんだよォ」
きゃらきゃらと猿は大笑いした。
「だま……された?」
水を浴びせられた気がした。
「バカな娘だよ、ナァ? おまえは、そもそも罠《わな》にはめられたのサァ」
陽子は息を飲んだ。
──罠。
ケイキの? ケイキの!?
柄をにぎる手が震えたが、否定する言葉を思いつけなかった。
「思い当たるフシがあるだろう? おまえは、こっちにつれて来られた。二度とあっちに帰さない罠だったのサァ」
かんだかい声が耳に突き刺さった。
「やめて!」
無我夢中で剣を払っていた。鈍い乾いた音がして草の先が舞う。陽子が自力でやみくもにふりまわした切っ先は猿に届かなかった。
「そうやって耳を塞《ふさ》いでも、事実は変わらないよォ。そんなもんを後生大事《ごしょうだいじ》にふりまわしているからさァ、死にぞこなっちまうのサァ」
「やめてっ!」
「せっかくいいもん持ってんだから、もっとマシなことに使いなよォ。──それでちょいと自分の首を刎《は》ねるのさァ」
きゃらきゃらと猿は天を仰いで大笑いをした。
「黙れぇっ!!」
手を伸ばして払った先に猿はいない。すこしばかり遠ざかって、やはり首だけがのぞいていた。
「いいのかい? オレを斬《き》っちまってサァ。オレがいなかったら、おまえ、口をきく相手もいないんだぜ」
はっ、と陽子は目を見開いた。
「オレがなにか悪さをしたかい。こうして親切にも、おまえに声をかけてやってんじゃないかァ」
陽子は歯を食いしばる。堅く目を閉じた。
「かわいそうになァ。こんなところにつれて来られて」
「……どうすればいいの」
「どうしようもないのさ」
「……死ぬのはいや」
それはあまりに恐ろしい。
「勝手にするがいいさ。オレはおまえに死んでほしいわけじゃないからさァ」
「どこへ行けばいいの?」
「どこへ行っても同じだ。人間からも妖魔からも追われるんだからヨォ」
陽子は顔をおおう。また涙がこぼれた。
「泣けるうちに泣いておきな。そのうち涙なんて涸《か》れちまうからサァ」
きゃらきゃらと声高く猿は笑った。笑い声が遠ざかっていくのを耳にして、陽子は顔をあげた。
「──待って!」
おいて行かれたくない。たとえ得体のしれない相手でも、こんなところにひとりで話す相手もなしに途方にくれているよりはずっといい。
しかし、顔をあげた先に猿の姿は見えなかった。まっくらになった闇の中に高笑いだけが遠ざかり遠ざかりしつつ、いつまでも響いていた。