「……不思議」
しくしくと身体を蝕《むしば》むような痛みは消えている。疲労が薄らいでいるのを感じる。たしかにこれは、なくしてはならないものだ。陽子にはこのうえもなくありがたい。
おそらくは、これが結びつけられていたから、鞘《さや》をなくすなといわれたのだろう。
制服からスカーフを外し、剣を使って細く裂いた。それを堅くねじって珠にあいた穴に通すと、首にかけておくのにちょうど良い長さだった。
珠を首にかけて、陽子は周囲を見わたす。斜面に続く林の中だった。すでに陽《ひ》はかたむいて、枝の下には薄闇が漂いはじめている。方角はわからない。これからどうしたらいいのかも、わからなかった。
「……ジョウユウ」
背後に意識を向けて問いかけてみたが、返答はなかった。
「お願いだから、なにか言ってよ」
やはり返答はない。
「これから、どうしたらいいの? どこへ行ってなにをすればいいわけ?」
どこからも声はしなかった。いないはずはないのに、自分の身体に意識をこらしてもそれがいる感触は見いだせなかった。かすかにかさかさと葉ずれの音がするのが、かえって静かな気がする。
「あたし、右も左もわからないのよ」
陽子は不毛なひとりごとを続ける。
「あたしはこっちのこと、なにひとつわからないんだよ。それであたしにどうしろって言うわけ。人のいるところに出れば、またつかまるんでしょ? つかまったら殺されるんじゃない。誰にも会わないように逃げまわって、それでなんとかなるの? どっかにドアでもあって、それを探して開けたら、家に帰れるわけ? そうじゃないでしょう」
なにかをしなければならないのに、なにをしたらいいのかわからない。ここに座っていてもなにひとつ救われないとわかっているのに、どこへ行ったらいいのかわからない。
林の中は急速にたそがれていこうとしていた。あかりを灯《とも》す方法も、今夜の寝床のあてもなかった。食べるものも飲むものもない。人のいる場所は危険で近づけず、人のいない場所をあてもなくうろつくのは怖い。
「あたしにどうしろっていうの。せめて、なにをどうすればいいのか、それだけでも教えてよ!」
やはり返答はなかった。
「いったいなにがどうなってるの。ケイキたちはどうしたの? さっきいたのはケイキでしょう? どうして姿を消したの。どうして助けてくれなかったの。ねぇ。どうして!?」
かさこそと葉ずれの音だけがする。
「お願いだから、なにかしゃべってよ……」
点々と涙がこぼれた。
「……帰りたい」
もといた世界を好きだったとは言わない。それでも離れてみれば、ただなつかしいばかりで涙が出てくる。もう一度帰れるならなんでもする。帰ったら二度と離れない。
「家に……帰りたいよぉ」
子供のように泣きじゃくりながらふと思う。
陽子はなんとか逃げだすことができた。県庁に送られることも、あの獣に喰われることもなかった。こうして生きて自分の膝《ひざ》を抱いていられる。
それはしかし、ほんとうに幸いなことだったのだろうか?
──痛みなら……。
浮上してきた考えを、頭をふってむりにも散らす。それを考えるのは怖かった。きっと今はどんな言葉よりも説得力がある。陽子はしっかりと膝を抱きしめた。
突然、声が聞こえたのはそのときだった。
妙にかんだかい老人のような声は、陽子が強いて考えないようにした思考を笑いを含んで言ってのけた。
「痛みなら、一瞬で終わったのにナァ」