疲労が大きいのでそんな場所でも眠れないということはなかったが、それでも飢餓《きが》は深い。珠《たま》をにぎっていればどうやら飢《う》えて死ぬことはないようだったが、それで空腹が満たされるわけではなく、胃のなかに身内を噛《か》む虫を無数に飼っているような気が、陽子にはした。
四日目になって、ただあてもなく歩きつづけることに見切りをつけた。
なにかに──それがなにかは陽子もわからない──突き当たりはしないだろうかと思って歩きつづけ、ただ歩くだけではなにひとつ進展がないことを認めないわけにはいかなかった。
ケイキを探さなくてはならない。探すためには人のいる場所へ行かなくてはならない。しかし、海客《かいきゃく》だと知れればまたつかまって、同じことがおこるのにちがいない。
陽子は自分の姿を見下ろした。
どこかでせめて着るものを手に入れる必要がある。着るものなりとも変われば、一見して陽子が海客だとばれることはないかもしれない。
問題は着るものを手に入れる方法だった。
こちらの通貨がなんなのかは知らないが、陽子には所持金がない。買うことは不可能だった。だとすれば方法は限られている。剣にものを言わせておどし取るか、あるいは盗み取るか。
着るものの問題には早くから気づいていたが、盗みを働く勇気が陽子にはなかった。四日あてもなく山をさまよって、ようやく決心がついた。
陽子は太い幹《みき》の影から、間近に見える小さな村落に目をやった。貧しいたたずまいの家が谷間の中程に密集している。陽《ひ》はまだ高く、遠目に見える田圃《たんぼ》に人影がある。住人はきっと、農作業をしている最中だろう。
意を決してそろそろと林を出た。集落の一番近くに見える家に近づいてみる。塀《へい》のようなものはなくて、周囲を小さな畑に囲まれている。黒い瓦《かわら》の屋根、半分|剥《は》げかけた白い土壁。窓らしき穴があいているが、ガラスは入っていない。鎧戸《よろいど》のように板戸がついていたが、どれも開いたままになっていた。
陽子は周囲に注意をはらいながら建物に近寄る。最近ではどんなバケモノを見ても震えないのに、歯を食いしばっていなければ奥歯が鳴るのをとめられなかった。
そっと窓から中をうかがうと、小さな土間に竈《かまど》とテーブルがあるのが見えた。ダイニング・キッチンという感じだった。人影は見えず、耳をすましても物音もない。
足音を殺して壁伝いに歩き、井戸のそばに戸口らしい板戸を見つけて手をかけてみる。ドアのように引いて開く板戸は難なく動いた。
息を殺して中をうかがい、それでようやくこの家が無人なのだと確認する。かるく息を吐いて陽子は家のなかに入った。
六畳ていどの土間の部屋だった。質素なつくりだが「家」の匂いがする。四方に壁があって家具があって生活の道具があって。それだけのことが泣きたいくらいなつかしかった。
この部屋にあるのは棚がいくつかだけだと見てとって、陽子はたったひとつあったドアに近づく。そっと開けてみると、中は寝室のようだった。いつか牢獄にあったのよりいくらかましな寝台が部屋の両端にふたつあり、棚や小卓や大きな木箱がおいてある。どうやらこの家にある部屋はこの二間きりのようだった。
窓が開いているのを確認し、陽子は部屋のなかに入ってドアを閉じる。まっさきに棚をあらため、そこにたいしたものはないのを確認してから、ついで木箱の蓋《ふた》を取った。
大型のテレビぐらいの大きさをしているその箱を空《から》にして、そこに入っているのは雑多なものを入れた小箱がいくつかとシーツや薄い布団《ふとん》、陽子にはとうてい着られそうもない子供用の着物だけだとわかった。
着るものがないはずはないのに、とあらためて部屋を見わたしたとき、隣の部屋のドアが開く音がした。
陽子は文字どおり跳びあがった。一気に鼓動が跳ねあがる。ちらりと一瞬窓のほうを見たが、そこまでは恐ろしく遠く感じる。ドアの外の相手に気づかれずに、そこまで移動するのは不可能なことに思えた。
──来ないで。
軽い足音が隣の部屋を動きまわって、そしていきなり寝室のドアが動いた。ついに身動きできなかった陽子は、箱の前、布が散乱したなかに呆然《ぼうぜん》と立っていた。反射的に剣の柄《つか》をにぎろうとしたが、やめた。
生きのびるために必要だから盗みに入った。いなおって剣でおどすことは簡単なことだけれど、相手がおびえなければ剣を使わなくてはならない。人に向かって剣は振れない。だとしたらこれが命運というものだろう。陽子は生きのびるための賭《か》けに負けたのだ。
──痛みなら、一瞬ですむ。
ドアが開いて中へ踏みこもうとした女が痙攣《けいれん》するように震えて硬直した。中年にさしかかったばかりという年頃の大柄な女だった。
逃げる気にはなれなかった。それでだまって立っていた。すとんと気分が落ちついた自分を感じる。つかまってこづかれながら県庁に送られ、そこでしかるべき刑罰を受ける。それでぜんぶがおわりになれば、ようやく飢《う》えも疲労も忘れることができるというものだ。
女は陽子と足元に散らばった布を見くらべ、そうして震える声で言った。
「うちには盗む値うちのあるものなんて、ないよ」
陽子は女が叫びだすのを待っていた。
「……それとも着るもの? 着物がほしいのかい?」
陽子は困惑し、ただだまっていた。女はその様子から肯定を感じとったのだろう、部屋のなかに入ってきた。
「着るものならここだよ」
女は陽子の間近を通って寝台に近寄り、膝《ひざ》をついた。広げてあった布団をめくると、寝台の下が引き出しになっていた。
「その箱の中はつかわないものばかりなのさ。死んだ子供の着物とかね」
言いながら引き出しを開けて、なかの着物を引っ張り出しはじめた。
「どんな着物がいい? あたしのものしか、ありゃしないんだけど」
女は陽子をふりかえる。陽子は目を丸くした。答えられずにいると女は勝手に着物を広げはじめる。
「娘が生きてりゃよかったんだろうけどね。どれもこれもあんたにゃ、じみかね」
「……なぜ」
ぽつり、と声がもれた。
どうしてこの女は騒ぎ出さないのだろう。どうして、逃げださないのだろう。
「なぜ?」
女がふりかえったが、陽子にはその先の言葉が見つけられなかった。女はわずかに強《こわ》ばった顔で笑い、それから着物を広げる作業を続ける。
「あんた、配浪《はいろう》から来たんだろう?」
「……ええ」
「海客が逃げた、って大騒ぎさ」
陽子はだまりこむ。女は苦笑した。
「頭の固い人間が多くてねぇ。海客は国を滅ぼすだの、悪いことがおこるだの。蝕《しょく》がおこったのまで、まるで海客がおこしたといわんばかりだからお笑いさ」
言ってから陽子を上から下まで見る。
「……あんた、その血、どうしたんだい?」
「山の中で、妖魔《ようま》が……」
それ以上は言葉にならない。
「ああ、妖魔に襲われたのか。最近、多いからね。よくぶじだったねぇ」
女はそう言って立ちあがる。
「とにかくお座り。ひもじくはないかい? ちゃんとものは食べていたのかい。ひどい顔色をしているよ」
陽子はただ頭をふった。自然に頭が下がった。
「とにかくなにか食べるものをあげようね。湯を使って汚れを落として。着物のことはそれから考えよう」
女はいそいそと隣の部屋に戻ろうとする。動けない陽子をドアのところからふりかえった。
「あんた、名前は?」
答えようとしたが、声が出なかった。次から次へ涙がこぼれてその場にうずくまった。
「かわいそうに」
女の声がして、温かなてのひらが陽子の背中を叩いた。
「かわいそうに、つらかったろうね」
こらえていたものがどっとこみあげ、嗚咽《おえつ》になって喉を突き破った。その場に胎児のように丸くなって、声をあげて泣いた。