女は衝立《ついたて》の陰から白い着物を渡してくれた。
「泊まっていくだろ? とりあえず寝間着を着ておいで」
陽子は深く頭を下げる。
女は泣きじゃくる陽子をなぐさめてくれて、小豆《あずき》の入った甘いお粥《かゆ》を作ってくれて、そうして大きな盥《たらい》に湯を張って、風呂の用意をしてくれた。
長いあいだ苦痛を訴えつづけていた飢えがおさまって、熱いお湯で身体を洗って、清潔な寝間着に袖《そで》を通すとそれでようやく人間に戻った気がする。
「ほんとうに、ありがとうございます」
風呂を使っていた衝立の陰を出て、陽子はあらためて頭を下げる。
「……申し訳ありませんでした」
陽子はこの女からものを盗み取ろうとしていたのだ。
まっすぐに見てみると、女の目は青い。その碧眼《へきがん》をなごませて女は笑った。
「いいんだよ、このくらいのこと。それより暖かいものでもおあがり。これを飲んで、今夜はゆっくりと寝るといい。布団を出してあげたからね」
「すみません」
「いいんだって。それより、その……悪いけど剣をしまわせてもらったよ。どうも心臓に悪くって」
「はい……。すみません」
「あやまりっこなしだ。それより、名前を聞きそびれたままだったね」
「中嶋陽子です」
「さすがに海客の名前は変わってるや。あたしはタッキってみんな呼ぶね」
言いながら、彼女は陽子に湯飲みをさしだした。陽子はそれをうけとり、
「タッキ? どんな字を?」
達姐《たっき》、と女は指でテーブルに文字を書いた。
「ところで陽子は、これから先のあてがあるのかい?」
聞かれて陽子は首をふった。
「なにも……。達姐さん、ケイキという人を知らないでしょうか」
「ケイキ? あたしの知り合いにゃいないが。──人探しかい?」
「はい」
「そりゃ、どこの人? 巧国《こうこく》の?」
「こちらの人だとしか……」
達姐は苦笑した。
「それだけじゃねぇ。せめてどの国のどのあたりか、それくらいはわからないと」
陽子はうつむいた。
「あたし、まったくこちらのことがわからないものだから……」
「そうだろうね」
言ってから達姐は湯飲みをおく。
「こちらには国が十二、ある。ここはそのうちの南東の国だ。巧国っていう」
陽子はうなずいた。
「陽《ひ》の昇るほうが東?」
「そうだよ。そうして、ここは巧国の東だ。五曽《ごそ》っていう。ここから北に十日ほど歩くと、高い山に出る。そこを越えた向こうが慶国《けいこく》だね」
陽子は達姐が机の上に書いた文字を見すえる。
「配浪《はいろう》は東の海岸に、ここからまっすぐ東に行ったあたりだ。街道沿いに歩いて五日ってとこだね」
まったく把握《はあく》が不可能であったものがようやく形を現してきて、やっとひとつの世界にいるのだという気がした。
「巧国はどのくらいの広さがあるんですか?」
達姐は困惑したように首をかしげる。
「どのくらいと聞かれてもね。そうだね、この巧国を東西に端から端まで歩いて、三ヶ月ってとこかね」
「……そんなに?」
陽子は目を見張った。歩いて、という時間の単位はよく把握できないが、東京都を横断しても七日かかるとは思えない。
「そりやあ、そうさ。かりにもひとつの国なんだから。南北に歩くのにも、そのくらいはかかる。隣の国に行くには山か海を越えなきゃならないから、四ヶ月近くの旅になるね」
「……そてし、十二国……」
「そうだよ」
陽子は目を閉じた。わけもなく箱庭のような世界を想像していた自分に気がついた。この広大な場所で、たったひとりの人間を探せというのか。なんの手がかりもなく、ケイキという名前だけで。ただこの世界を一周するだけで、四年はかかるというのに。
「そのケイキという人は、どういう人なんだい?」
「……わかりません。たぶん、こちらの人だとしか。あたしをこちらへつれてきた人なんです」
「つれてきた?」
「はい」
「へえぇ、そういうこともあるんだねぇ」
達姐は感心したように言った。
「珍しいことなんですか?」
「あたしはあんまり学がないんでね」
達姐は苦笑する。
「海客についてもくわしくないのさ。海客なんて、めったにお目にかかるものでもなし」
「……そうなんですか」
「そうだよ。──なんにしても、そりゃあ、普通の人間じゃないだろう。あたしたちにはできないことだからさ。神さまの仲間か仙人か、人妖か……」
陽子はキョトンと達姐を見返した。達姐は笑《え》みを浮かべる。
「あちらに行くとか、人をつれてくるとか、普通の人間にできることじゃないんだよ。普通の人間じゃないとなれば、神仙か妖魔だってことになるね」
「妖魔がいるのはわかりますけど……神さまや仙人もいるんですか?」
「いるね。あたしたちには縁のない上の世界のことだけど。神も仙人も上で暮らす。めったに下には下りてこない」
「上?」
「空の上さ。下にいる仙人もいないじゃないけどね。州侯《しゅうこう》がそうだね」
陽子が首をかしげると達姐は苦笑する。
「それぞれの州には領主がひとりいる。ここ淳《じゅん》州なら淳候だ。王から候に任ぜられて、淳州を治めている。州侯ともなれば普通の人じゃない。不老長寿で、神通力をあやつったりする。まあ、べつの世界の人だねぇ」
「それじゃ、ケイキもそういうひとなんでしょうか」
「さてね」
達姐はさらに苦笑した。
「仙人というなら、国のえらい役人もそうだし、王宮で働くものは小間使いにいたるまでみんな仙人さ。人は空の上には行けない。王宮は上にあるから、そういうことになるね。王なら神の一族だ。仙人は王が任命する。それ以外にも自力で昇仙する奴もいるけどね、そういうのはだいたい世捨て人だ。なんにしてもあたしたちとは別の世界の人だし、あうこともありゃしない」
陽子は達姐の言葉をたんねんに頭の中へしまいこむ。どんな知識も重要だった。
「海には龍王がいて海の中を治めるというけれど、ほんとうのことか、おとぎ話かは知らない。ほんとうに龍国《りゅうこく》があるんだったら、そこの人間も普通の人じゃないんだろうさ。そのほかにも妖魔のなかに人の形になれるものがいるそうだ。人妖っていうんだが。たいがいは人に似てるってだけだが、なかには普通の人間と区別がつかない姿に化けられるものもいる」
達姐は言って土瓶《どびん》から冷めたお茶をつぎたした。
「この世界のどこかに妖魔の国があるというけど、ほんとうかどうかはわからない。人と妖魔も、結局のところ別の世界の生き物だからね」
陽子はうつむいた。情報は増えたのに、事態はかえって混沌《こんとん》としてきた気がする。
ケイキは人ではないという。では、いったい何者だったのだろう。ハンキョやカイコや、あの奇妙な獣たちは妖魔の一種だろう。だとしたら、ケイキもまた人妖なのだろうか。
「あの……ヒョウキとか、カイコとかジョウユウという妖魔はいますか?」
達姐は不思議そうな顔をした。
「……そういう妖魔は聞いたことがないねぇ。どうしたんだい?」
「ヒンマンとか」
達姐はすこしけげんそうにする。
「賓満《ひんまん》だろう。戦場や軍隊に出る妖魔だ。身体がなくて、赤い目をしているそうだよ。──なんでそんなもんを知っているんだい」
陽子はすこし身を震わせる。では、ジョウユウは賓満という妖魔なのだ。それが今も自分の身体に憑依《ひょうい》している。
それを言ったら達姐に気味悪く思われそうで、陽子はただ首をふった。
「……コチョウとか」
「コチョウ」
身じろぎをして、達姐は蠱雕《こちょう》という文字を書く。
「角《つの》のある鳥だろう。人を喰う獰猛《どうもう》なやつだ。蠱雕がどうしたんだい?」
「襲われたんです」
「ばかな。どこで」
「あちらで……。蠱雕に襲われて、あたしは逃げてきたんです。あたしかケイキを狙《ねら》って現れたみたいで……。身を守るためにはこちらへ来るしかないと、ケイキがそう言って」
「そんなことがあるもんかね」
達姐が低く言う。陽子は重いためいきをつく達姐を見返した。
「なにか変ですか?」
「変だね。どこぞの山に妖魔が出るというだけでも、こっちの人間にはおおごとなんだよ。もともと妖魔ってのは、そうそう人里に出るもんじゃない」
「そう……なんですか?」
目を見張る陽子に、達姐はうなずいて見せる。
「最近はどういうわけか多いけどね。危なくって、日が暮れたから外に出られやしない。蠱雕みたいな獰猛なやつが出るとなったら大騒ぎさ。だけどねぇ」
達姐は難しい顔をする。
「妖魔ってのは猛獣みたいなもんで、特に誰かを狙ったりはしない生き物なのさ。しかもわざわざあちらへ、なんてね。そんな話ははじめて聞いたよ。──陽子はひょっとしたら、なにかおおごとに行きあっちまったんじゃないのかい」
「そうなんでしょうか」
「あたしにゃ、よくわからないけどね。ちかごろ妖魔が多いことといい、どうにもいやな感じだねぇ」
達姐の不安そうな声が陽子までも不安にする。山に妖魔がいることも、妖魔がひとを襲うことも、こちらではあたりまえのことだと思っていたのに。
──いったい、自分は何にまきこまれているのだろう?
考え込んだ陽子をはげますように、達姐があかるい声を投げてきた。
「そんな難しいことをあたしたちで考えてもしかたないさ。それより、陽子はこれからあてがあるのかい?」
聞かれて陽子は顔をあげる。達姐の顔を見返して首を横にふった。
「……ケイキを探すことしか、あたしにできることはないんです」
たとえケイキたちが妖魔だとしても、彼らが陽子に危害を加えないことは知っている。
「それは時間がかかる。簡単にできることじゃないよ」
「……とりあえず生活しなきゃならないだろ? ここにいてくれてもいいけど、近所の連中に見つかると、また県庁に突き出されることになるよ。親戚《しんせき》の子だと言えば通るだろうけど、そんなに長い時間はむりだ」
「……そんなご迷惑はおかけしません」
「東に行ったところに河西《かさい》という街があるんだが、そこにあたしのおっかさんがいる」
陽子は達姐を見返した。達姐は笑う。
「宿屋をやっているんだけどね。おっかさんなら、事情を聞いてもあんたを県庁に突き出したりしない。雇《やと》ってくれるよ。──働く気はあるかい?」
「はい」
陽子は即座にうなずいた。ケイキを探すのは、とてもむずかしいことだろう。だとしたら、どこかに生活する場所を持っていなければ話にならない。妖魔と戦う夜も、食べるものもなく野宿する夜も、できることならもう終わりにしたかった。
達姐は笑ってうなずく。
「えらいね。なぁに、そんなに大変な仕事じゃない。ほかに働いているのも気のいい子ばかりだし、きっと気にいるよ。──明日には発《た》てるかい?」
「だいじょうぶです」
よかった、と達姐は笑った。
「だったらおやすみ。ゆっくり休んで。もしも明日起きて旅がつらいようだったら、しばらくここにいていいんだからね」
陽子はうなずくかわりに深く深く頭を下げた。