陽子がいるのがどこで、そしてどこへ向かっているのか、それは陽子自身にもわからなかったし、すでに興味を無くしていた。
日が暮れるから剣をにぎって立つ。敵が来るから戦う。朝が来るから寝場所を探して寝る。それだけがただ続いていく。
珠《たま》をにぎり、剣を杖にして立ちあがるのが当たり前になった。敵がいなければ座りこむ。間合いが遠ければ足は引きずる。人の気配がなければしゃべるかわりに始終うめく。
飢餓は身内に張りついてすでに体の一部になった。飢《う》えに負けて妖魔の死体を切り刻んでもみたが、異常な臭気があってとうてい口に持っていけない。たまに出会う野獣をしとめ、それを口にしたときにはすでに身体が固形物を受けつけなくなっていた。
幾度目かの夜を乗り切って、夜明けを迎えた。街道から山に踏み込もうとして木の根に足を取られ、長い斜面を転がり落ちて、投げやりな気分でそこで眠った。眠る前に周囲を見回すことさえしなかった。
夢も見ずに眠って、目が覚めるとどうしても立ちあがることができなかった。周囲は樹影の薄い林のなかのくぼ地、すでに陽《ひ》はかたむいてじきに夜がやってくる。このままこんなところで身動きできなくなったら、妖魔の餌食《えじき》になるだけだ。一度や二度の襲撃なら、ジョウユウがむりにも戦わせてくれるだろうが、それ以上になればもはや身体がいうことをきかないだろう。
陽子は地に爪をたてる。なんとしてもせめて、街道まで出なくては。
せめて街道へ出て誰かの助けを求めなければ、ここで死ぬだけだと想像がついた。首に下げた珠を探る。それを必死でにぎりこんでも、剣を杖のかわりに地に突き立てることさえできなかった。
「助けなんて来やしないサァ」
とつぜん声がして、陽子は視線を向けた。光のあるうちにその声を聞いたのははじめてだった。
「これでとうとう楽になれるなァ」
陽子はただ粉を吹いたように見える猿の毛並みを見つめる。なぜこんな時間に現れたのか、とそれだけボンヤリ考えた。
「これで街道に這《は》って出ても、どうせ誰かにつかまるだけサァ。助けといえば助けかもしれねえなぁ。そいつがひと思いに殺してくれるかもしれないからヨォ」
たしかにそうだ、とそう思う。
誰かに助けを求めなければ、と思う。その願いが切実だから、助けなどあるはずがないという気がする。街道に出ても助けは来ない。もしも誰かが通りがかったとしても、その誰かは陽子をふり向きもしないだろう。汚い、浮浪者のような姿に顔さえしかめていくのかもしれない。
そうでなければ、追いはぎだろう。彼は陽子に近づき、盗めるほどのものがないのを見てとって剣を奪っていく。ひょっとしたらごていねいにとどめを刺していってくれるかもしれない。
この国はそういうところだ、とそう思って、陽子は唐突に気づいた。
この猿は陽子の絶望を喰いにやってくるのだ。サトリの妖怪のように陽子の心に隠れた不安を言い暴《あば》いて、陽子をくじけさせるために現れる。
小さな謎をといたことが嬉しくて、陽子はかるく微笑んだ。それに力を得て寝返りを打つ。腕に力をこめて体を起こした。
「あきらめたほうが良くはないかい」
「……うるさい」
「もう楽になりたいだろう」
「うるさい」
陽子は剣を地に突き立てた。崩《くず》れそうになる膝を緊張させ、悲鳴をあげる手で柄《つか》にすがりついて身体を支える。立ちあがろうとしたが、バランスを崩した。こんなに体は重かったのか。まるで地面を這《は》うべくして生まれてきた生き物のようだ。
「そこまでして生きたいのかい。生きてなんの得があるんだ、え?」
「……戻る」
「そんな苦しい思いをしてよォ、それで生きのびたって戻れやしねえよ」
「わたしは、帰るんだ」
「帰れねえよ。虚海を渡る方法はねえのさ。おまえはこの国で、裏切られて死んでいくんだ」
「うそだ」
この剣だけが頼りだ。陽子は柄《つか》をにぎった手に力をこめる。頼るものもすがるものもない。ただこれだけが、陽子を守ってくれる。
──そして、と陽子は思う。
これだけが希望だ。これを陽子に渡してくれたケイキは、二度と帰れないとは言わなかった。ケイキに会えさえすれば、戻る方法が見つかるかもしれない。
「ケイキが敵じゃねえと言えるのかい」
──それを考えてはいけない。
「ほんとうに助けてもらえるのかい?」
──それでも。
このままなんの手がかりもなくさまよっているよりも、ケイキが敵であれ味方であれ、彼に会ってみること以上のことがあるはずがない。ケイキに会ってなぜ彼が陽子をこちらにつれて来たのか、帰る方法があるのかないのか、聞きたかったことをぜんぶ聞いてみる。
「帰って、それでどうなるんだい、えェ? 戻ればそれで、大団円になるのかい?」
「……黙れ」
わかっている。戻ったからといって、陽子はこの国を悪夢だと忘れてしまうことはできないだろう。なにもかもなかったふりで、以前のとおりに生きていくことなどできるはずがない。ましてや、戻ったからといってこの姿が元に戻るという保証があるのか。そうでなければ「中嶋陽子」のいた場所に戻ることはできないのだ。
「浅ましいこったなァ。あきれたバカ者だよ、おまえはナァ」
きゃらきゃらと遠ざかっていく哄笑《こうしょう》を聞きながら、陽子はもう一度身を起こした。
どうしてなのか自分でもわからない。バカだと思うし浅ましいとも思う。それでもここであきらめるぐらいなら、もっと前にあきらめてしまえばよかったのだ。
陽子は自分の身体を思い出す。怪我《けが》だらけで血と泥によごれたままで、ボロ布のようなありさまになりつつある服からは、身動きするたびにいやな臭気がする。それでもこうしてなりふりかまわず守ってきた命だから、簡単に手放す気にはなれなかった。死んでいたほうがましだったというなら、そもそもの最初、学校の屋上で蠱雕《こちょう》に襲われたときに死んでいればよかったのだ。
死にたくないのでは、きっとない。生きたいわけでもたぶんない。ただ陽子はあきらめたくないのだ。
帰る。かならずあのなつかしい場所に帰る。そこでなにが待っているか、それはそのときに考えればいいことだ。帰るためには生きていることが必要だから、守る。こんな所で死にたくない。
陽子は剣にすがって立ち上がった。斜面に突き立て、藪《やぶ》におおわれた坂を上がり始める。これほどゆるくこれほど短いのに、これほどつらい坂を陽子は知らない。
何度も足をすべらせ、くじけそうになる自分を励まして、上を目指す。苦吟《くぎん》の果てにようやく伸ばした手の先に街道の縁がかかった。
爪を立てて道に這《は》いあがる。うめきながら街道に身体を引きあげて、平坦な地面の上につっぷしたとき小さな音が聞こえた。
山道の向こうから聞こえる声に、陽子は思わず苦い微笑《わら》いを浮かべた。
──よくできている。
この世界はどこまでも陽子がにくいらしい。
山道を近づいてくるその声は、赤ん坊の泣き声にひどく似ていた。