友人、と呼んでいた誰もが実は友人ではないことなど、心のどこかでわかっていた。
人生のなかのほんのいっとき、狭い檻《おり》のなかに閉じこめられたものどうし、肩を寄せ合っていただけだ。進級してクラスが別れれば忘れる。卒業すれば会うこともない。おそらくは、そんなことだったのだ。
そう思っても、涙がこみあげた。
かりそめの関係だと、きっとどこかでわかってはいた。それでもなおそのなかに、なにかしらの真実が隠されているのではないかと期待していたのだ。
できれば教室に飛びこんで陽子のおかれた状況を訴えてみたかった。そうしたら彼女たちはどう反応するだろう。
どこか遠い世界の、平和な国で生きている人たち。彼女たちにもきっと、悩みや苦しみがありはするのだろう。かつての陽子がそうだったように。そう思うと心底笑えて、陽子は地面に寝ころんで体を丸めた。
この世のすべてのものから切り離されてひとりで、まさしくひとりで体を丸めている自分。切実に孤独だと、思う。
親と喧嘩したとき、友達と仲違いをしたとき、たんに感傷で気分が落ち込んだとき、孤独だな、とつぶやいていた自分の言葉がいかに甘かったか。帰る家があり、決して敵にはなりえない人がいて、気分を慰《なぐさ》めてくれるものがあって、たとえそんなものすべてをなくしたとしても、きっとすぐに友達なら作れる。それがうわべだけの友達にしても。
そのとき、いくら聞いても耳になれない嫌な声がして、陽子は丸くなったまま顔をしかめた。
「だから帰れねえってばよ」
「うるさい」
「帰れると思うなら、やってみるがいいサァ。帰ったところで、誰もおまえを待っちゃいないけどなぁ。しかたないよなぁ。おまえは待つだけの値打のない人間だったんだから」
どうやら猿は剣の幻になにかの関係がある。蒼《あお》い猿が現れるのは幻を見る前後だと決まっていた。特に危害を加えるわけではない。ただ聞きたくもないことを耳障《みみざわ》りな声と口調で言っていくだけだ。だからだろう、ジョウユウも決して反応しなかった。
「──お母さんがいるもの」
いつか幻で見たぬいぐるみをなでて泣く母親の姿が目に浮かんだ。友達と呼んでいた同級生の中にほんとうの友達がいなくても、母親だけは真実陽子の味方のはずだ。どっとなつかしさがこみあげて胸が痛む。
「お母さん、泣いてた。だからあたしは、いつかぜったい帰るんだ」
猿はひときわ高く笑った。
「そりゃあ、母親だからサァ。子供がいなくなりゃ悲しいさ」
「……なによ、それ」
陽子が顔をあげると、短い雑草におおわれた地面の、手を伸ばせば届きそうなあたりに青く光る猿の首がある。
「べつにおまえが消えたのが悲しいわけじゃないのさァ。自分の子供をなくしたのが悲しくて、そんな自分が哀れなだけさ。そんなこともわからねえのかい」
胸を衝《つ》かれた。陽子には反論できなかった。
「たとえ子供がおまえじゃなくて、もっと最低の子供でも、母親はやっぱり悲しいのさ。そういう生き物だからサァ」
「だまれ」
「怖い顔をするこたないだろう。俺はほんとうのことを言っているだけだ」
きゃらきゃらきゃらと耳に刺さるような音で猿は大笑いする。
「長いこと育てた家畜といっしょだよ。育てりゃ情がうつるもんだ。ナァ」
「だまれっ!」
軽く身を起こして剣を構える。
「怖い、怖い」
猿はそれでも笑いつづけた。
「親がなつかしいか、え? そんな親でもよォ」
「聞きたくない」
「わかってるともさ。おまえは家に帰りたいだけなんだ。親に会いたいわけじゃねえよなァ。あったかい家と味方のいる場所に帰りてえんだよナァ」
「……なに」
きゃらきゃらと猿は笑う。
「親なら裏切る心配はねえか。ほんとうにそうなのかい。飼い主と同じじゃねえのかい」
「なにを」
「おまえは犬や猫といっしょなのサァ。おとなしくかわいがられてるあいだはいいけどよォ、飼い主の手をかんだり家を荒らしたらそれまでなんだぜ。そりゃァ、連中にもよォ、世間体《せけんてい》ってもんがあるからおまえを叩き出したりはしないけどよォ。世間さえだまってりゃ、子供をくびり殺したいと思っている親なんざ、いくらでもいるに決まってるサァ」
「ばかばかしい」
「そうか、ばかばかしいな」
猿はいたずらっぽく目を見開いてみせる。
「連中は子供をかわいがってる自分が好きなんだからなァ。たしかにバカなことを言ったよ。子供思いの親ってのを演じるのが、大好きなんだもんナァ」
きゃらきゃらと哄笑《こうしょう》が耳に刺さる。
「……この」
「おまえだってそうだろうが、えェ?」
陽子は柄《つか》にかけた手を止める。
「いい子をやっているのが楽しかったんだろうが。親の言うことを聞いてたのは、親が正しいと思ってたからかい。逆らったら叩き出されるような気がして、飼い主の機嫌《きげん》を取ってただけじゃねえのかい」
陽子はとっさに唇をかむ。叩き出されることを心配したわけではないが、叱られること、家の中の空気が重くなること、ほしいものを買ってもらえないこと、ペナルティーを課されること、そんなことが心配でいつの間《ま》にか両親の顔色をうかがっていた自分を知っている。
「おまえのいい子はうそだ。いい子なんじゃねえ、捨てられるのが怖いから親につごうのいい子供のふりをしてただけだろう。親の、いい親もうそだ。いい親なんじゃねえ、うしろ指を指されるのが怖いから世間なみのことをしてただけだろう。うそどうしの人間が裏切らないはずがあるかい。どうせおまえは親を裏切る。親はおまえをかならず裏切る。人間てのは、みぃんなそうなのさァ。おたがいにうそをついて、裏切って裏切られて回っているんだよォ」
「……この、ぱけもの」
ひときわ高く猿は笑った。
「立派な口がきけるようになったじゃねえか。そうとも、俺はばけものサァ。けどなァ、俺は正直だからナァ。うそは言っちゃいないぜ。俺だけがおまえを裏切らない。残念だナァ、その俺が教えてやってるのにヨォ」
「黙れ!」
「帰れねえよ。死んだほうがマシだヨォ。死ぬ勇気がねえなら、もっとマシな生き方をしなよォ。そいつでサァ」
猿は陽子が掲げた剣を見る。
「もっと正直にサァ。味方はいねえんだ、敵ばっかりだ。ケイキだって敵なんだからヨォ。腹が減ってるだろう? まっとうな暮らしがしたいだろう? そいつを使いなよォ。それでちょいと人をおどしてサァ」
「うるさい!」
「どいつもこいつも汚い金しか持ってねえんだ。ちょいと銭を出させてサァ。そうすりゃマシな生き方ができるのにナァ」
きゃらきゃらと耳障《みみざわ》りな声に向かって剣をふり下ろしたが、そこにはもうなんの姿も見えなかった。夜の中を哄笑だけが遠ざかっていく。
陽子は土を掻《か》く。鉤爪《かぎづめ》の形に曲がった指のあいだから、なにかがこぼれ落ちていくような気がしていた。