しばらく空をにらんだまま声をあげて息をする。わき腹が灼《や》けつくように痛かった。息をするたび喉が裂ける気がする。腕も足も、切断されたように感覚がなかった。船酔いのような目眩《めまい》をこらえながら、空を流れる雲を見ている。一方の雲が薄く茜色《あかねいろ》に染まっていた。
突然、ひどい吐き気がこみあげた。とっさに顔をそむけ、そのままの姿勢で吐瀉《としゃ》する。ひどい臭いのする胃液が頬を伝う。切迫した息といっしょに吸いこんで激しくむせた。反射的に寝返りを打って伏せ、しばらくせきこむ。
──生きのびた。
なんとか、生きのびることが、できた。
せきこみながら、頭のなかでそれをくりかえし、ようやく息が収まったところで、陽子はかすかな音を聞いた。
──土を踏む音だった。
「…………!」
まだ敵がいたのかと、とっさに顔をあげたが、そのとたんに視野が回転する。すっと目の前が暗くなって、地面に顔をつっこんだ。
起きあがることが、できない。
それでも、一瞬に満たないあいだに目眩のする目でとらえたもののことは忘れなかった。
──金の色。
「──ケイキ!」
土に顔をつっこんだまま叫んだ。
「ケイキぃっ!!」
──やはり、おまえが。
──おまえが、この妖魔を。
「理由を言えぇっ!!」
すぐ間近で足音を聞いた。陽子は顔をあげた。
かろうじてあげた視線が最初にとらえたのは、鮮《あざ》やかな色の着物。次いでとらえたのは金の髪。
「……どうして」
こんなことを、と言いかけた言葉は声にならなかった。
のけぞるようにして見あげた相手の顔は、ケイキのものではなかった。
「……あ──」
ケイキではない。女、だった。
彼女はじっと陽子を見おろしている。陽子は目を見開いてその瞳を見返した。
「誰……?」
金の髪の似合う女だった。陽子よりも十ばかり年上のようだった。華奢《きゃしゃ》な肩の上に、色鮮やかな大きなオウムがとまっている。
うれいをふくんだ表情がひどく美しく見えた。陽子が下からのぞきこむ顔には、今にも泣きそうな表情だけがある。
「誰……だ」
かすれる声で聞いたが、女はじっと陽子を見つめたまま返答をしなかった。澄んだ目が、静かに涙をこぼした。
「なに……?」
彼女は深く瞬《まばた》きした。頬を透明な涙がこぼれおちていく。
意外なことに言葉をなくした陽子の目の前で、女は顔をそむける。すぐ脇にある獣の死体に目を向けた。少しのあいだ、悲痛な顔でそれを見つめ、ゆっくりと一歩を踏み出す。死体の側に膝をついた。
陽子はそれをただ見守った。言葉は出ず、身動きもまたできない。身を起こそうとする努力ならさっきからしているが、指の一本でさえ動かなかった。
女はそっと手をのばして獣に触れる。指先に赤いものがついたとたん、なにか熱いものに触れたように手をひいた。
「あなた、誰なの……」
女は返答しない。もういちど手をのばして、今度は獣に刺さったままの剣の柄《つか》をにぎってひきぬいた。ぬいた剣を地面におき、獣の首を膝の上に抱きあげた。
「あなたが、そいつをさしむけたのか」
女はだまったまま膝の上の毛並みをなでる。高価そうに見える着物にべっとりと血糊《ちのり》がついた。
「いままでの妖魔もそう? わたしになんのうらみがあるの」
女は獣の首を抱いたまま首をふる。陽子が眉《まゆ》をひそめたとき、おんなのかたにとまっていたオウムが羽《は》ばたいた。
「コロセ」
かんだかい声で言ったのはまぎれもなくそのオウムだった。陽子ははっと視線をむけ、女もまた目を見開いて自分の肩にとまった鳥を見る。
「トドメヲ、サセ」
女がはじめて口を開いた。
「……できません」
「コロセ。イキノネヲ、トメルノダ」
「……お許しを! それだけはできません!」
女ははげしく首をふる。
「ワシノ、メイレイダ。コロセ」
「できません!」
オウムは大きくはばたいて宙に舞い上がった。一度だけ旋回し、地面に降り立つ。
「デハ、ケンヲ、ウバッテコイ」
「この剣はこの方のもの。そんなことをしても、むだです」
女の声には哀願する響きがある。
「ソレデハ、ウデヲ、オトセ」
オウムはかんだかい声で叫んで、地にとまったまま大きく羽ばたいた。
「ソレクライハ、ヤッテモラウ。ウデヲ、オトセ。ケンヲ、ツカエヌヨウニ、シロ」
「……できません。だいいち、あたくしには、この剣は使えません」
「デハ、コレヲ、ツカウガイイ」
オウムは大きく嘴《くちばし》を開く。嘴の奥の丸い舌のさらに奥から、なにか光るものが現れた。
陽子は目を見開く。オウムは黒く、つややかな棒のようなものの先端を吐き出した。驚愕《きょうがく》する陽子の目の前で、吐き出しつづける。一分ほどかかって完全に吐き出されたそれは、黒い鞘《さや》をつけた日本刀のような刀だった。
「コレヲ」
「お願いです。お許しください」
女の顔は絶望の色に染まっている。オウムは再び羽ばたいた。
「ヤレ!」
声に打たれたように女は顔をおおった。
陽子はあがく。なんとしても起きあがって逃げねばならない。それでも指先で土をかいて、それだけでもうせいいっぱいだった。
女は涙に濡れた顔で陽子を振り返る。
「……やめて」
陽子の声は自分にも聞き取れないほどかすれた。
女はオウムが吐き出した刀に手をのばす。獣の血に汚れた手で鞘《さや》を抜いた。
「やめて。……あなたは、何者なの」
そのオウムは何者なのだ。その獣は、なんなのだ。どうしてこんなことをする。
女はかすかに唇を動かした。ほんとうにかすかな、許してください、という言葉を陽子は聴き取った。
「……おねがい、やめて」
女は刀の切っ先を、土をかく陽子の右手に向ける。
不思議なことに女のほうが今にも倒れそうな顔色をしていた。
見守っていたオウムが飛んできて、陽子の腕にとまった。細い爪が肌にくいこむ。どうしたわけか、まるで岩を乗せられたように重い。はらいのけたかったが、まったく腕が動かなかった。
オウムが叫ぶ。
「ヤレ!」
女は刀をふりあげた。
「やめてぇっ!!」
渾身《こんしん》の力で腕を動かそうとしたが、なえて、しかも重しが乗った腕が動くよりも、女が刀をふりおろすほうが速かった。
痛みはなく、ただ衝撃があった。
自分の運命を見届けることが、陽子にはとうていできなかった。
衝撃が痛みに変化する前に、陽子は意識を手放した。