動くこともできず、泣くこともできず、たたぼんやりと水溜《みずた》まりに頬《ほほ》を浸していると、突然背後でガサガサと下|生《は》えをかき分ける音がした。身を隠したほうがいいのだろうとは思ったが、首をあげることさえできなかった。
村人か、獣か、妖魔《ようま》か。いずれにしても選択|肢《し》が増えるだけで、結果が増えるわけではない。捕らわれるにしても襲われるにしても、このままここに倒れているにしても、たどりつく先はひとつなのだ。
霞《かす》む目をあげて物音のほうを見ると、そこにいたのは村人でも追っ手でもなかった。そうして人でもない。一頭の奇妙な獣だった。
姿はネズミに似ている。二本の後《うし》ろ肢《あし》で立ちあがって、髭《ひげ》をそよがせているさまはほんとうにネズミに似ていた。妙な感じがするのは、立ちあがったそのネズミが子供の背丈ほどの大きさもあったからだった。たんなる獣のようにも見えないが、妖魔のようにも見えない。それで陽子《ようこ》はぼんやりとその不思議なネズミを眺めていた。
雨の中で緑の大きな葉を笠のようにかぶっていた。透《す》けるような緑を白く雨足が叩《たた》いて、その白い水滴がきれいだと思った。
ネズミはきょとんとしたように陽子のほうを見ているだけで、特に身構えるようすもない。すこしネズミよりもぽってりとしていた。茶色と灰色のあいだの色をした毛皮はふかふかとして、いかにも触《さわ》ると気持ちよさそうだった。毛並みについた水滴がなにかの飾りのようだ。尻尾《しっぽ》まで毛皮におおわれていたので、ネズミに似ているがネズミとは違う生き物なのかもしれない。
ネズミは何度か髭をそよがせて、それから二本足のままほたほたと陽子のほうに近づいてきた。灰茶色の毛並みが屈《かが》みこむ。小さな前肢が陽子の肩に触った。
「だいじょうぶか?」
陽子ははげしく瞬《まばた》いた。子供の声に聞こえたが、聞いてきたのはまちがいなくそのネズミだった。不思議そうな表情をして、ごていねいに首までかしげる。
「どうした? 動けないのか?」
陽子はじっとネズミの顔を目線だけで見上げて、それから小さくうなずいた。人ではなかったので、すこし警戒をといた。
「そら」
ネズミは小さな、ほんとうに子供ほどしかない前肢をさしだした。
「がんばれ。すぐそこにおいらの家があるから」
ああ、と陽子は嘆息した。
それが助かったことに対する安堵《あんど》なのか、失望なのかは自分でもわからなかった。
「ん?」
伸ばされた手を取ろうとしたが、指の先が動いただけだった。ネズミの手が伸びる。小さな暖かい前肢が陽子の冷え切った手をにぎった。