すでに体力は尽きている。雨は冷たく体温を奪う。人にはつらい夜なのに妖魔のほうはむしろ活発なぐらいだった。
張りついた服が動きを妨げる。なえてかじかんだ身体はすこしも思うように動かない。右手はなんとか感覚が戻ったとはいえ、少しも握力が出ない。その手で剣をにぎるのはとほうもない難行事《なんぎょうじ》だった。しかも雨で柄《つか》がすべる。あたりは真の暗闇《くらやみ》で敵の姿が定かでない。しかも襲ってくる妖魔は小物だが数が多かった。
泥のなかに突っこみ、返り血をかぶり、自らの怪我からあふれたもので血だらけになった。それすらも雨が洗い流していって、いっしょに最後の力までも押し流していく。剣は重く、ジョウユウの気配は希薄な気がした。構えた剣の切っ先は敵に会うたびに下がっていく。
祈るように何度も空を見上げて夜明けを待った。戦いながら過ごす夜はいつも短いが、この夜に限って敵はひきもきらないのに恐ろしく長い。何度も剣を取り落とし、拾いあげるたびに傷だらけになって、ようやく夜明けの気配が見えたころに白い樹影が見えた。
陽子は枝の下に転がり込むと硬い枝が身体を傷つけた。追いすがっていた敵の気配が止まる。枝の下で息を整えているあいだ遠巻きにしていたようだったが、やがて雨の向こうへ消えていった。
敵の気配が消え去った頃、やっと空があかるんで木立が作る影が見えはじめた。
「……助かっ……た」
陽子は息をつく。肩で息をする口のなかに雨の滴《しずく》が降ってきた。
「切り……抜け……た……」
泥を擦《す》りこまれた傷口が疼《うず》いたが、それすらも気にならなかった。
しばらく寝転んだまま息を整えて、白い枝を透かして見える空がどんよりとあかるむのを待った。息が治まるとひどく寒かった。白い枝は雨を遮《さえぎ》らない。抜け出してどこかで雨宿りしなければならないとわかっていても身体が動かなかった。
必死で珠《たま》をにぎりしめる。指先を暖める奇妙な力を懸命に取りこんで蓄えようとしてみる。渾身《こんしん》の力で寝返りを打ち、這《は》って樹の下から抜け出し、とにかく斜面の低いほうへ動いてみる。濡れた草と土のせいで這うのはけっこう楽だった。
できるだけ街道を外れないように移動したはずだが、光のない深夜、敵に追い立てられてのことだから、どれほど山の奥へ迷いこんでいるか想像もつかなかった。
珠《たま》にすがり、剣にすがって立ちあがる。
怪我をしている自覚はあり、ひどい痛みを感じていることもわかっていたが、どこが痛いのかはよくわからない。一歩あるく毎《ごと》に膝が崩れそうになるのを持ちこたえなくてはならなかった。
なかば這って斜面を下りると、街道とは思えない細い道に出た。轍《わだち》の跡は見えないし、馬車が通れるほどの道幅もない。そうして、そこが限界だった。膝をついて、木肌に爪をたてて身体を支えようとした手はまったく用をなさなかった。
頭からぬかるんだ道に突っこんで、それきり身動きができない。
手のなかに硬く珠をにぎりこんだが、そこからやんわりと押し寄せてくるぬくもりはなんの慰《なぐさ》めにもならなかった。そこから補給されていくものよりも、雨に溶けて流されていくもののほうが数段多い。それはついに宝重《ほうちょう》の奇跡が及ばなくなったことを意味した。
──そう思うと、すこし笑えた。
クラスメイトの中でも、野垂《のた》れ死にするのは陽子だけだろう。
ちがう世界の人たちだ。彼女たちにはいつでも帰れる家があり、守ってくれる家族があり、決して飢《う》えることのない未来が約束されている。
できる限りのことはした。これが限界。あきらめたくはなかったが、どんなに努力してももう指一本動かせなかった。限界まで耐えたご褒美《ほうび》がこのゆるやかな死なら、がまんした値うちがあったのかもしれない。
雨音に混じって高く澄んだ音がした。目をあげると頬のすぐそばに落ちた剣が淡く光を放っていた。地面に顔を伏せた陽子の目からは刀身はよく見えなかったが、それでも地を叩く雨音がかすんで薄い影が見えた。
──中嶋は、と男の声が聞こえた。
陽子の担任が座っていた。そこがどこなのかはよくわからない。
「中嶋はおとなしくてまじめな生徒でしたよ。少なくとも担任にとっては、あれくらい楽な生徒はなかったです」
担任は誰かに向かって話をしていた。その相手の声が聞こえる。太い男の声だった。
「素行の悪い連中とつきあっていたというようなことは?」
「わかりません」
「わからないんですか」
担任は肩をすくめる。
中嶋は絵に描いたような優等生でしたからね。どんな生活をしているのか、ひょっとしたら道を踏み外していないか、心配する必要がなかったんです」
「妙な男が学校に乗りこんで来たんでしょう?」
「そうなんですが、なんだか中嶋はあいつとは面識がないようでしたがね。じっさいのところどうだったのか、わたしにはわかりません。なんだか中嶋には得体の知れないところがありましたから」
「得体の知れない?」
担任は渋い顔をする。
「ちょっと言葉がちがうかな。うまくいえないんですが。中嶋はね、優等生でしたよ。クラスの生徒ともうまくおりあいをつけていた。両親との関係もいいようだった。でもねぇ、そういうことはありえないんですよ」
「……ほう?」
「わたしがこんなことを言ってはいけないのでしょうが、教師は教師のつごうを押しつけ、友達は友達のつごうを押しつける。親は親のつごうしか言わない。誰も彼もが勝手な学生像を作ってむりやりそこに押しこもうとするんです。この三者の意見が一致することなんかありえません。教師と親の期待通りであれば、生徒にとっては鼻持ちがならない。誰にとってもいい子であったということは、誰に対しても合わせていたということじゃないかと思うんです。だからだろうと思うんですが、中嶋は誰ともうまくやってたかわりに、誰とも特別したしくなかった。誰にとってもつごうがいいだけで、それ以上ではなかったんだと思います」
「先生はいかがです?」
担任はすこし渋い顔をした。
「本音をいいますとね、教師にとっては多少手を焼かせて目が離せないような生徒のほうが可愛いんです。わたしは中嶋をいい子だと思っていましたけどね、きっと卒業してしまえば忘れてしまったでしょう。十年あとに同窓会があっても、覚えていなかったんだろうと思いますよ」
「……なるほど」
「中嶋が故意にそうふる舞っていたのか、いい子でいようとするあまりそういうことになったのか、それはわたしにもわかりません。故意にそうふる舞っていたのだったら、陰で何をやっていたか想像もつかない。故意でなければ、そんな自分に気がついたときひどく虚《むな》しいだろうと思うんですね。自分はいったいなんだったのか、虚しく思ってふいと姿を消す、そういうことがあっても不思議じゃないような気がします」
陽子は呆然《ぼうぜん》と担任の姿を見ている。その姿が薄くなって、かわりにひとりの少女が現れた。陽子とは比較的仲のよかった生徒だった。
「君は中嶋さんと仲がよかったときいてるけど?」
と、声が聞くと少女は剣のある目つきをする。
「べつに。特に仲がよかったわけじゃないです」
「そうなの?」
「そりゃ、学校でならちょっとは話をしましたけど、べつに学校の外で会うわけじゃないし、家に電話をするわけでもないし。多少はそういうこともありましたけど、そんなのクラスメイトとしてのおつきあいの範囲内です」
「なるほどね」
「だから、あたしにあいつのこと聞かれてもわかりません。当たり障《さわ》りのない話しかしなかったし」
「彼女を嫌いだったのかい?」
「べつにいやな奴じゃなかったけど、特にいい奴だとも思ってませんでした。なにか、いつも適当に話しを合わせてるような感じあったんですよね。きらいじゃなかったけど、面白くなかったから」
「ふうん?」
あたしはきらいでした、と言ったのはべつの少女だった。
「だって中嶋さんって、八方美人だったんですもん」
「八方美人?」
「そうです。あたしたちが誰かの悪口を言ってたとするでしょ? そうしたら、うなずくんですよ。そうだね、って。でもそいつがあたしたちの悪口を言ってると、今度はそれにもうなずくんです。誰にも彼にもいい顔ばっかりして、だからきらいだった。仲がよかったなんて、とんでもないです。愚痴《ぐち》を言うのにはよかったですけど。なにを言ってもうなずいてくれましたから。それだけです。
「──ふむ」
「だから、家出なんだと思いますよ。彼女が陰で変な連中とつきあってて、そいつらと教師もクラスメイトもバカだ、ふざけんじゃねぇ、なんて気炎をあげてても驚きません。そういうのって、ありそうな感じがする。そういう得体の知れない感じってありましたから」
「なにかの事件に巻き込まれた可能性もあるんだがね」
「だったら、影でつきあってた連中となにか揉《も》めたんじゃないですか。あたしには関係ないです」
あたしは大きらいでした、と言ったのはさらにべつの少女だった。
「だから、正直言っていなくなってすっとしてます」
「君は、クラスでいじめられたんだって?」
「そうです」
「中嶋さんも参加してたの?」
「してました。みんなといっしょになってあたしのこと無視して、それでも自分はいい子の顔をしてたんです」
「……ふむ?」
「みんながあたしにひどいことを言うでしょ? そういうとき、中嶋さんって、積極的に参加しないんです。いつも自分はこういうことはきらいなんだけど、って顔をしてるんです。そういうのって、卑怯《ひきょう》だと思う」
「なるほど」
「自分だけは善人の顔をして、あたしのほうを気の毒そうに見るんです。でも、みんなを止めないの。だからよけいに腹が立った」
「そうだろうね」
「家出でも誘拐《ゆうかい》でも、あたしには関係ないです。中嶋さんは加害者で、あたしは被害者だったんだから。そんな人に同情するような、中嶋さんみたいな偽善者になりたくないです。あたしのこと、疑ってもらってもいいです。あたしは中嶋さんがきらいだったし、あの人がいなくなって嬉しい。これがほんとうの気持ちです」
そんな子じゃありません、と言ったのは母親だった。しおれたようにどこかに座っている。
「いい子だったんです。家出をするような子じゃありません。不良とつきあうような子でもありません」
「しかし、陽子さんは家庭に不満があったようですね」
母親は目を見開く。
「陽子が? そんなはずはありません」
「ずいぶんと同級生にこぼしていたようですよ。ご両親が厳しい、と言って」
「それはときに叱《しか》ったりもしましたけど、親なんだから当たり前でしょう? いいえ、そんなはずはありません。あの子は不満そうな様子なんてこれっぽっちも」
「では、家出の理由に心当たりはないんですね?」
「ありません。そんなこと、するはずがありません」
「学校に陽子さんを訪ねてきた男にも心当たりがない?」
「ありません。そんな人とつきあうような子じゃありません」
「では、なぜいなくなったのだと思われますか?」
「学校の帰りにでも、誰かに──」
「残念ながら、その形跡はありませんでした。陽子さんは職員室から男といっしょに出ていって、そのままどこかに行ったと思われます。べつにむりやり引っぱっていかれたとか、そういうわけではなかったようです。親しいようだったと言っておられた先生もいらっしゃいましたが」
母親はうつむいてしまう。
「面識はないと陽子さんは言っておられたようですが、たとえ面識なくてもなんらかの関係があったのではないかと思います。共通の知人がいるとかの。一応捜索はしてみますが……」
「陽子はほんとうに家の不満をこぼしていたんでしょうか?」
「そのようですね」
母親は顔をおおった。
「不満があるようには見えませんでした。家出をするような子でも、陰に隠れて悪い友達とつきあうような子でもないと思っていました。変な事件に巻きこまれるような子でもないと」
「子供というのは、なかなか親に本音《ほんね》をみせませんからね」
「よそさまのお宅の話を聞いて、陽子はなんてできた子だろう、と思ってました。今から考えると、おかしいと思ってみなければいけなかったのかもしれません」
「そうそう子供は親のつごうのいいようには育ってくれませんから。うちの子供もどうしようもない悪餓鬼《わるがき》ですよ」
「そうなんですね……。あの子はいい子の顔をして、ていよく親をあしらっていたんですね。わたしたちはうっかりそれにだまされて。子供を信じていたのが仇《あだ》になったんだわ」
(お母さん、ちがう……)
泣きたかったが涙は出なかった。ちがう、と声にはならないまま口だけを動かすと、それですとんと幻が消えた。
あたりは一面の水溜り、陽子は顔を泥の中になかば伏せて、すでに立ちあがる余力はない。陽子が今こんな状況におかれていることなど、誰ひとり想像しえないにちがいない。これを知らないから、あんな勝手なことが言えるのだ、とそう思った。
こんな世界に放りこまれて、ひもじくて切なくて怪我《けが》だらけで、もう立ちあがることさえできなくて。それでも帰りたいと、それだけで歯を食いしばってきたのに。実を言えば陽子が故国で持っていたものは、こんな人間関係でしかなかったわけだ。
──どこに帰るつもりだったのだろう。
待っている人などいないのに。陽子のものはなにひとつなく、人は陽子を理解しない。だます、裏切る。それにかけてはこちらもあちらもなんの差異もない。
──そんなことはわかっていた。
それでも陽子は帰りたかったのだ。
妙に笑えて、大声で笑ってみたかったが雨に凍《こご》えた顔はすこしも笑ってくれなかった。泣きたい気もしたが、涙は涸《か》れてしまっていた。
──もういい。
もう、どうでもいいことだ。じきにぜんぶが終わるのだから。