親子は陽子の味方であるかのように振る舞いぬいたし、陽子もとりあえずゆっくり休むことができた。「この親子だってなにを考えてるかわかったもんじゃない」というのが蒼猿《あおざる》の言い分ではあったし、それは陽子も承知していることではあったが。
楽俊の母親は旅の準備をなにからなにまで整えてくれた。達姐《たっき》の家よりも貧しそうに見えるのに、粗末なものとはいえ陽子の着がえにいたるまで準備してくれる。陽子には大きな男物だったので、楽俊の死んだ父親のものかもしれない。
それはかえって陽子のなかに警戒心を呼びおこした。ただの善意でここまでしてくれるとは思えなかった。楽俊はまだいい。見かけだけでも人ではないから。母親のほうを信頼する勇気が陽子にはない。
「どうしてわたしを助けてくれるの」
たまりかねてそう聞いたのは、楽俊の家を出てようやく建物が見えなくなったころだった。楽俊は小さな前肢で髭《ひげ》の先をいじる。
「だっておまえ、陽子ひとりじゃとうてい関弓《かんきゅう》まで行けねえだろう」
「道を教えれば、それでじゅうぶんだとは思わない?」
「なぁに。関弓見物も悪くねえ。あそこはなかなか面白いところだと聞くからな。なんでも、あちら風なんだと。王があちらの人じゃしかたねえけど」
「倭《わ》風? 漢風?」
「倭風。延《えん》王は倭から戻ってきたんだ」
「それだけ?」
楽俊は陽子を振り仰いだ。
「陽子はそんなにおいらが信用できねえのか」
「……親切過ぎると思わない?」
背中に大きな布包みを背負ったネズミは、カリコリと胸の毛並みを掻《か》いた。
「ご覧のとおり、おいらはハンジュウだ」
「……ハンジュウ?」
「半分、獣。ここ巧《こう》国の王は半獣がお好きでない。海客《かいきゃく》もきらいだ。あの方は変わったことがおきらいなんだ」
陽子はただうなずく。
「だいたい、巧国に海客は多くねえ。海客はだいたい東の国に流れつくし、それで言えば多いんだろうが、実際の数はたかが知れてらあ」
「どのくらい?」
「さてなぁ。三年にひとりいるかいないか、ってとこだな」
「そう……」
それは思ったよりも数が多い。
「海客が流れつくのはなんといっても慶《けい》国が多い。東の端になるからな。次が雁《えん》国、巧国はその次だ。巧国じゃ、半獣も多くねえ。これはどうした加減かは知らねえ」
「ほかの国は多い?」
「多いな。少なくとも巧国ほど少なくねえ。このあたりじゃ半獣はおいらだけだ。主上は悪い王じゃねえんだろうが、すこしばかり好ききらいが激しい。海客のあつかいも厳しいし、半獣のあつかいも冷たい」
言ってから楽俊は髭を弾《はじ》いた。
「おいらは自慢じゃねえが、この辺で一番頭がいいんだ」
陽子は意図をはかりかねて、楽俊を見つめる。
「利発だし目端が利《き》くし、気だてもいい」
陽子はすこしだけ笑う。
「……なるほど」
「それでもおいらは一人前じゃねえ。いつまでたっても半人前だ。半分しか人間じゃねえからな。この姿で生まれたときにそう決まっちまった。だけどこんなの、おいらのせいじゃねえ」
陽子は小さくうなずく。言わんとしていることは漠然《ばくぜん》とわかったが、それでも警戒心がとけない。
「海客だってそうだろう。だから、海客が海客だってだけで殺されるのは我慢できねえんだ」
「そう」
楽俊は今度は大きな耳の下の毛並みを掻いた。
「ジョウショウってわかるか? 上庠──都の学校だ。上庠の成績は一番だった。選士《せんし》ってのに選ばれて少学《しょうがく》へも推薦《すいせん》された。少学ってのは淳《じゅん》州の学校だ。これに行けたら、ちょっとした地方官になれる」
「郡は県の上?」
「郷の上だな。州には郡が幾つかある。幾つかは州によってちがうけどな。郡は五万戸、四郷、郷は一万二千五百戸、五県」
「……ふうん」
五万戸、という数字はピンとこなかった。
「ほんとうは上庠だって行けねえんだ。それを母ちゃんが一生懸命頼んで入れてくれた。成績がよければもっと上の学校へいけて、そしたら役人になれる。おいらは半人前だから田圃《たんぼ》をもらえねえけど、田圃がなくてもちゃんと生活できるようになる。けどな、少学には半獣は入れねえんだとさ」
「……そう」
「母ちゃんはおいらを上庠に入れるために自分の田圃も家も売っ払っちまった」
「じゃ、今は?」
「今は小作だ。近所の金持ちの自地《じち》を雇《やと》われて耕してる。
「自地」
「お上がくれるのが公地《こうち》。許可をもらって開墾《かいこん》したのが自地だ。もっとも、働いてるのは母ちゃんだけで、おいらは働いてない。働きたくても働けねえんだ。半獣は雇ってもらえねえ。税金が余計にかかるからな」
陽子は首をかしげた。
「なぜ?」
「半獣には熊や牛みたいな連中もいる。そういう連中は人並み以上に力があるから、だと。要は主上が半獣をきらいだってことなんだけどな」
「ひどい話だな……」
「海客ほどじゃねえけどな。なにも、つかまえろだの殺せだの言うわけじゃねえんだから。だけどおいらは人の頭数に入らねえ。それで田圃ももらえなけりゃ、職を見つけることもできねえ。母ちゃんはひとりでおいらとふたりの生活を支えてる。だからウチはビンボウなんだ」
「……そう」
「おいら、職がほしいよ」
言って楽俊は首に下げた財布を示した。
「これは母ちゃんがおいらを雁国の少学へ入れようってんで貯《た》めてくれた金だ。雁国じゃ、半獣だって一番上の大学まで行けて、国のえらい役人にだってなれる。ちゃんと一人前に認めてもらえて、田圃だってもらえるし、戸籍に正丁《せいてい》って載《の》る。陽子を連れていって頼んだら、雁国で職がもらえるんじゃねえかと、実は思った」
ではやはり、まったくの善意ではないのだ、と陽子は皮肉な気分で思った。悪意ではないのかもしれないが、善意だと思うことはできない。
「……なるほど」
その声が明らかに棘《とげ》を含んでいたのだろう、楽俊は立ち止まった。すこしのあいだ陽子を見たが、それだけでなにも言わなかった。
陽子もまたそれ以上はなにも言わなかった。人は誰もが自分のために生きている。慈善でさえ、突き詰めれば自分のためでしかない。だから楽俊の言葉はうらめしく思うようなことではないのだ。
ああ、と陽子は思う。人は結局自分のために生きるものだから、裏切りがあるのだ。誰であろうと他人のために生きることなどできるはずがないのだから。