「……どうする?」
「どうするって、ここまで来たもんを」
「そうじゃなくて。わたしは彼と話をしてみたい。楽俊は宿に帰ってる? ちょっと用心しといたほうがいいかもしれない」
「構うもんか。行こう」
石段をあがってドアを入ってていく楽俊のあとを陽子も追う。店のなかでは男が店員と階段の下で待っていた。陽子たちを認めると、かるく笑って階段を昇っていく。
店員が男を案内したのは三階の部屋だった。ふた間続きで、中庭に面してベランダがある。部屋は広く、贅沢《ぜいたく》なつくりで内装も凝《こ》っていた。置かれた家具までが贅を凝らしたもので、陽子は若干|気後《きおく》れを隠せない。かつて陽子が足を踏み入れたどんな宿より格段に高級な店だった。
男は店員に酒肴《しゅこう》を命じるなりソファ風の椅子に腰をおろす。こういった格式の店になれている風情があった。無数に灯《とも》された蝋燭《ろうそく》のせいであかるい部屋の中で見ると、着ているものもかなり高価なものであることがわかる。
「あの……」
入り口で立ちつくす陽子に男は笑う。
「座《すわ》ってはどうだ?」
「……失礼します」
陽子は楽俊と顔を見合わせ、うなずきあって腰をおろした。どうにも落ちつかない感じだった。男はそんな様子《ようす》をほのかに笑ってみるばかり、特になにを言うでもない。対応に困って部屋の中を見回していると、店員が酒肴を調えて運んできた。
「旦那様《だんなさま》、ほかにご用は」
聞いてくる店員を手をふって下がらせる。店員が部屋を出るときドアを閉めるよう命じた。
「飲んでみるか?」
問われて陽子は首を横にふる。楽俊もまた首を横にふった。
「あの……」
なにを話しかけていいのかわからないなりに、とにかく会話を持ちかけようとした陽子の言葉を男がさえぎった。
「みごとな剣を持っているな」
陽子の右手に視線を向けて男が手をさしだす。なんとなくあらがいがたいものを感じて、陽子は剣を手渡した。男はかるく柄《つか》をにぎって引く。難なく抜けた。
そんな、と声をあげた陽子にはかまわず、男は鞘《さや》と剣とを検分する。
「──鞘が死んでいるな」
「鞘が、死んで?」
「妙な幻を見なかったか」
聞かれて陽子は眉《まゆ》をひそめた。
「……なに」
緊張した陽子を笑って、男は刀身を鞘におさめる。丁寧《ていねい》な手つきで陽子に剣をさしだした。陽子はそれをうけとってかるく柄をにぎりしめる。
「どういうことです」
「言葉どおりの意味だが。それがどういう代物《しろもの》だか知らないのか」
「どういう代物、って」
男は勝手に水差しのようなガラス瓶から液体を杯に満たす。少しも構えたところのない動作だった。
「それは水禺刀《すいぐうとう》という。水をして剣を成《な》さしめ、禺《さる》をして鞘《さや》を成さしめ、よって水禺刀というそうだ。剣としても傑物だが、それ以外の力も持っている。刃に燐光を生じ、水鏡をのぞくようにして幻を見せるそうだ。うまくあやつる術を覚えれば過去未来、千里のかなたのことでも映し出すという。気を抜けばのべつまくなし幻を見せるそうだ。それで鞘をもって封じるとか」
かるく杯をかたむけて陽子を見る。
「鞘は変じて禺を現す。禺は人の心の裏を読むが、これもまた気を抜けば主人の心を読んで惑わす。ゆえに剣をもって封じると聞いた。慶《けい》国秘蔵の宝重《ほうちょう》だ」
陽子は思わず腰を浮かせた。
「しかし、この鞘は死んでいるな。鞘の封印をなくして、さぞかし幻が暴れたろう」
「……あなたは」
「党に書状を出したろうが。──用件を聞こう」
「まさか、延台輔《えんたいほ》でいらっしゃいますか」
男は人の悪い笑みを浮かべた。
「台輔は留守《るす》だ。用件ならば俺が聞く」
陽子は落胆を抑えきれない。やはり台輔その人ではないらしい。
「要件なら書状に書きました」
「書いてあったな。景《けい》王とか」
「わたしは海客《かいきゃく》です。こちらのことはよくわかりません。ただ」
陽子は楽俊を見た。
「この楽俊が、わたしを景王だと」
「どうやらそのようだな」
男はあっさりうなずいた。
「信じるんですか」
「信じるもなにも。水禺刀は慶国の宝重、そもそも魔力甚大な妖魔を滅ぼすかわりに封じ、剣と鞘に変じて支配下に押さえこみ宝重となしたものだ。ゆえにそれは正当な所有者にしか使えん。すなわち、景王でなくてはな。封じこんだのは何代か前の景王だから、そういうことになる」
「──でも」
「互いに互いを封じるゆえ、本来ならば主人にしか抜けぬ。今は鞘が死んでいるので俺にも抜けたが。たとえ抜き身の剣をにぎったところで藁《わら》一本|斬《き》れん。ましてや幻を引き出すことは断じてできんな」
陽子は男をまっすぐに見る。
「あなた、なにもの」
──ただものではない。これほど慶国の事情にあかるいからには。
「先に名乗る気はないか?」
「中嶋《なかじま》、陽子です」
男は視線を楽俊に向けた。
「では書状を出した張清《ちょうせい》とはおまえか」
はい、と楽俊があわてて居住まいを正した。
「字《あざな》は」
「楽俊です」
「──で? あなたは」
陽子はにらんだが、男を威圧することはできなかった。
「俺は小松《こまつ》尚隆《なおたか》という」
まったくかまえる様子を見せずに答えた男を、陽子はまじまじと見返した。
「……海客?」
「胎果《たいか》だな。ショウリュウと音に読む者が多い。多いといってもたかがしれているが」
「……で?」
「で?」
「あなたは何者? 台輔の護衛かなにか?」
ああ、と男は笑った。
「称号でいうなら俺は延《えん》王だ。──雁《えん》州国王、延」