血糊《ちのり》を払って剣をおさめた男が言った。すこしも息を乱していない。体躯《たいく》は大きいが巨漢という印象はなかった。堂々たる偉丈夫《いじょうぶ》とはこういう人間のことを言うのだろう。陽子は肩で息をしながら黙って男を見あげる。男はただ笑った。
「これを聞くのは無礼かもしれんが。──無事か?」
だまってうなずくとかるく片|眉《まゆ》をあげる。男はただ笑った。
「しゃべる体力も尽きたか?」
「……どうも、ありがとう、ございました」
「礼を言われる筋合いのことではないな」
「助けていただきましたから」
返答に窮《きゅう》していると、背後から上着を掴《つか》まれた。
「──陽子、だいじょうぶか?」
楽俊だった。足元の死体を気味悪そうに見やった。その楽俊から鞘《さや》を受け取り、露《つゆ》を払った剣をおさめる。
「だいじょうぶ。楽俊こそ怪我《けが》はない?」
「おいらはだいじょうぶだ。──そこの人は?」
さあ、と陽子は肩をすくめてみせた。男はただ笑っただけで陽子の背後の建物に視線を向ける。
「その宿に泊まっているのか」
「──ええ」
そうか、とつぶやいてから男は周囲を見わたす。
「人が集まってきた。おまえ、酒は飲めるか」
「いえ……」
「おまえは」
男は楽俊を見る。楽俊は困惑したように髭《ひげ》をそよがせながらうなずいた。
「では、つき合え。役人と話をするのは面倒だ」
言うなり背中を向けて歩き出す。陽子は楽俊と顔を見合わせ、どちらからともなくうなずいてその後を追った。