貧しい旅に馴《な》れた陽子も同様で、どうにも落ちつかない。部屋に下がってひとりになって、すこし考えごとをしてみたかったが、錦張りのふかふかした椅子《いす》は座《すわ》りづらいし、漆《うるし》に螺鈿《らでん》をほどこしたテーブルは、触《さわ》ればくっきり指紋がついて頬杖《ほおづえ》をつくのも憚《はばか》られる。
部屋を見回すと一方に四畳半ほどの小部屋が見えた。そこなら落ちつけるだろうかと近づいてみたが、陽子はかるくためいきを落とした。
間仕切りの、繊細《せんさい》な透《す》かし彫《ぼ》りの入った細い扉は折りたたまれている。中は一歩入ったところが高くなって、そこには絹のカーテンが下がっている。そのカーテンも半分が開けてあって、台の上には錦《にしき》の布団が敷かれているのが見てとれる。四畳半ほどもあるこの大きな台が寝台だというのなら、これは悪い冗談だとしか思えない。ここで横になっても、ものを考えることはできそうになかったし、ましてや眠れるとも思えなかった。
所在なくて陽子は大きな窓を開ける。フランス窓は床から天井までの高さがある。幾何学模様の桟《さん》に色ガラスを入れた窓の外は広い露台だった。
延《えん》は予告どおり、陽子に雲海に張り出したテラスに面した部屋を与えたのだ。
窓を開けると潮の匂いが通った。香の匂いよりもよほどいい。陽子は外に踏み出した。白い石を敷かれたテラスは建物の周囲をめぐって、ちょっとした庭ほども広さがある。
陽子はテラスを歩き、手摺《てす》りにもたれてぼんやりと雲海を見た。月は大きく傾いて天上の海に沈もうとしている。
じっと足元の岩場に波が打ち寄せるのを見ていると、背後でほたほたと足音がした。ふり返ると灰茶の毛並みをした生き物がやってくるところだった。
「散歩?」
声をかけると、楽俊は苦笑する。
「まあな。──寝られねえか?」
「うん。楽俊も?」
「あんな部屋で寝られるかい。宿屋に残ってりゃよかったと、ほとほと後悔してる」
「同感」
陽子が言うと、ネズミは声をあげて笑った。
「おめえがそんなことを言ってどうする。陽子にもこんな王宮があるんだぞ」
楽俊に言われて陽子の顔から笑みが引いた。
「……やっぱり、あるんだろうね」
楽俊は横にきて並ぶ。陽子と同じように海を見おろした。
「慶《けい》国の王宮は瑛《えい》州、堯天《ぎょうてん》にある。金波宮《きんぱきゅう》っていうな」
あまり興味を誘われなかったので、陽子は気のない相づちを打った。楽俊はちょっとのあいだ、黙りこむ。
「──なぁ、陽子」
「うん……」
「景麒《けいき》は舒栄《じょえい》とかいう偽王に捕まっているだろう」
「らしいね」
「もしも塙《こう》王が絶対に陽子を玉座《ぎょくざ》につけまいと思ったら、ひとつ有効な方法がある」
「景麒を殺すこと、だね」
「そうだ。景麒が死ねばおまえも死ぬ。蓬山《ほうざん》に登って天勅《てんちょく》を受けたわけではねえから、実際にどうなるかはわからねえが、どっちかというとそうなりそうだな」
陽子はうなずいた。
「そう思う。景麒と契約を交わしてしまったせいで、わたしは人ではなくなったんだから。怪我《けが》をしにくくなったのもそのせいだろうし、言葉がわかったのも、剣が使えたのも、そもそも虚海《きょかい》をいっしょに渡れたのも、ぜんぶそのせいなんだろう」
「たぶんな。景麒は敵の手の中だ。身を守るためには──」
「聞きたくない」
陽子は遮《さえぎ》る。
「陽子」
「ちがう。駄々《だだ》をこねてるんじゃない。王がどういうものか、麒麟《きりん》がどういうものか、よくわかった。だから、自分の命を守るためだとか、そんなことで決断をしたくない」
「でもな」
「自棄《やけ》で言ってると思ってほしくないんだけど」
陽子は微笑《わら》う。
「わたしはこちらに来て、いつ死んでもおかしくない状況だったんだ。なんとか生きてこられたけど、それは運が良かったんだと思う。こちらに来たときになかったも同然の命だから、そんなに惜《お》しい気がしない。すくなくとも、そういう惜しみかたをしたくない」
楽俊はきゅうぅ、と喉《のど》を鳴らした。
「だから命を惜しんで軽はずみな選択をしたくない。みんながわたしに期待してるのはわかってる。でもここでみんなの都合に負けて自分の生き方を決めたら、わたしはその責任を負えない。だから、ちゃんと考えたい。そう、思ってる」
楽俊の真っ黒な目が見あげてきた。
「おいらには、どうして陽子がそんなに迷うのかよくわからない」
「わたしにはできない」
「なんでだ?」
「わたしは、自分がどれだけ醜《みにく》い人間か知ってる。王の器《うつわ》じゃない。そんなたいそうな人間じゃない」
「そんなことは」
「楽俊が半獣だというなら、わたしも半獣だ。一見して人間のようだけれど、内実は獣でしかない」
「陽子……」
陽子は露台の手摺をにぎる。華奢《きゃしゃ》な石の感触がいかにも繊細で美しい。眼下には透明な水、それを透かして見る関弓《かんきゅう》のあかりは夜光虫のようだ。波がゆるやかに打ち寄せて穏やかな音を立てていた。みごとに美しい景観だが、自分がそれにそぐわない。堯天という街にあるという金波宮も同じように美しい城だろう。そこにいる自分を思うと気後《きおく》れよりもおぞましさを感じた。
そう言うと楽俊はためいきをつく。
「王は麒麟に選ばれるまではただの人だ」
「わたしは麒麟に選ばれても、そんな人間でしかいられなかった。盗もうとした、脅《おど》そうとした、実際に生きるために人を脅した。人を疑った、命を惜しんで楽俊を見捨てた、殺そうとした」
「延王はおまえにならできると言ったろう」
「延王はわたしがどれだけ浅ましく生きてきたか知らない」
「おまえならできる。止《とど》めを刺されそうになったおいらが言うんだからまちがいねえ」
陽子は楽俊を見おろした。陽子の鳩尾《みぞおち》のあたりまでしか背丈のないネズミは、手摺のあいだから顔を出してじっと空の上にある海を見つめている。
「わたしには、できない……」
雲海を見ながらつぶやいた声に返答はない。小さな手が陽子の腕をかるく叩《たた》いて、それにふりかえるとすでに灰茶の毛並みは背中を向けていた。
「楽俊」
「おいらでも迷うだろうから、迷うのが悪いとは言わねえ。よく、考えな」
ネズミは背中を向けて遠ざかりながら手をあげた。そのままふりかえりもしない影を陽子は見守る。
「……楽俊だって、ぜんぶを知ってるわけじゃない……」
低くつぶやいたときだった。
──わたしは知っている。
それは陽子の独白ではなかった。弾《はじ》かれたように顔をあげて周囲を見渡したが、耳が聞いた声でもない。
──あなたはずっとひとりではなかった。わたしはぜんぶを知っています。
「……ジョウユウ……?」
──玉座を望みなさい。あなたになら、できるでしょう。
陽子には返答ができない。話しかけられたことに驚いたせいでもあるし、話しかけられた内容のせいでもある。
──あえて主命に背きました。お許しを。
主命、という言葉にいつか景麒が言った「ないものとしてふるまえ」という言葉を思い出した。それで今日まで一度も会話に応じてくれなかったのか。
──ばけものと呼び、取ってくれと駄々をこねた。そのせいなのだから、これは陽子の咎《とが》だ。
「わたしは、ほんとうにおろかだ……」
つぶやいた声にはもう返答がなかった。