「……麒麟《きりん》」
これが、麒麟なのか。
雌黄《しおう》の毛並みの一角獣。鹿の類ならではのほっそりとした脚には鉄の鎖が巻かれていた。麒麟は深い色の眼で陽子を見る。そばに寄るとすこしまろい形の鼻先を陽子の腕にあてた。
「……景麒《けいき》?」
言うとまっすぐに陽子を見あげる。四肢を折って陽子の足元に体躯《たいく》を伏せた。
屈《かが》み込んで手を伸ばしても逃げない。金の鬣《たてがみ》をなでると眼を閉じた。
──これがわたしの半身なのか。
陽子をこの運命に投げ込んだ、あちらでは伝説にしか棲《す》まない獣。
「探した」
陽子が言うと、景麒は陽子の膝に頤《おとがい》を寄せる。何度もお辞儀するようにして擦《す》りつけた。
もう一度鬣をなでると、足元で硬い音がした。獣を戒《いまし》めた鎖がなった音だった。
「待って。今放してあげる」
陽子は立ちあがり鎖に向かう。剣の切っ先を鎖にあてて真上から突いて断ち切った。麒麟は立ちあがる。体重を感じさせない動きだった。そうして何度も陽子の腕に頭を擦りつける。正確には、その角を。
「……どうした?」
角をのぞき込んで、陽子はそこに妙な模様があるのに気がついた。てのひらほどの長さのそれに赤褐色の文字。それはひどく乾いた血の色に似ていた。
「これが、どうか?」
麒麟はただ角を擦りつける。そのじれたような仕草に陽子は異常に気づいた。半獣の楽俊がしゃべる。妖《あやかし》さえしゃべるこの地で、最高位の霊獣と呼ばれる麒麟がしゃべれないはずがあるだろうか?
そういえば剣の幻の中で「角を封じたので人の姿になれず、しゃべれない」といっていなかったか。
かるく角を擦ると、麒麟はおとなしくされるままになっている。服の裾で強くぬぐうとすこしだけかすれたが、それ以上の変化はない。いぶかってよくよく見ると、細かな文字が角に彫り込まれているのだとわかった。
傷ならば役に立つかもしれない、と陽子は珠《たま》を懐《ふところ》から取り出した。そっと当てながらぬぐうと明らかに薄くなる。何度かくりかえしてごく薄くなったとき、突然腕の中で声が響いた。
「ありがたい」
声は懐かしい音をしていた。
「……景麒?」
麒麟はわずかに眼を細めて陽子を見あげる。
「いかにも。ご苦労をおかけしたようで申しわけございません」
陽子は微笑《わら》う。すこしも悪びれない口調がただ懐かしかった。
「おひとりか?」
「延《えん》王がご助力くださった。雁《えん》国の王師が外で偽王軍をとどめている」
「なるほど」
うなずいて麒麟は強い声をあげた。
「ヒョウキ、ジュウサク」
壁からすべり出てくるようにして、二頭の獣が姿を現す。
「ここに」
「いって延王をご助勢申しあげよ」
深々と一礼して、二頭の獣の姿が消えうせた。
「ぶじだったんだ」
「無論」
麒麟はうなずいてみせる。そのほんとうに悪びれない声がおかしかった。
「角を封じられると、使令も封じられる?」
麒麟が気まずそうに小さく唸《うな》った。
「ずいぶんと学ばれたようだ。……そのとおりです。ご迷惑をおかけして申しわけない」
「ジョウユウは封じられずにすんだから、わたしには影響がない。カイコとハンキョは?」
「ここにおります。お呼びしますか」
「いや。みんなぶじならいい。あとでゆっくり会えるから」
「はい」
「ああ、そうだ。お願いがあるんだけど」
「なんなりと」
「ジョウユウにした命令をといてほしい。まだ離れてもらっては困るけど」
麒麟は陽子を見つめて二、三度|瞬《まばた》きをする。
「ずいぶんとお変わりになった」
「うん。景麒にもお礼を。賓満《ひんまん》をありがとう。ジョウユウにはほんとうに助けてもらった。お礼も言いたいし、聞きたいこともあるから」
「お聞きになりたいこと?」
「そう。ジョウユウって、どういう字を書くのか」
獣は目を見開いた。
「──おかしなことをおっしゃる」
「そうかな。でもずっとほんとうの名前を聞いてないみたいで、気になっていたから」
陽子がそういったときに、ふいにぞろりとした感触が手をつたった。
指があるかなしかに動いて宙に文字を描く。
──冗祐。
陽子はかるく微笑《ほほえ》んだ。
「ありがとう、冗祐」
──使令は麒麟に仕え、ひいては王に仕える。礼をいっていただくにはおよびません。
陽子はただ微笑《わら》った。そんな陽子を見ていた麒麟は眼を細める。
「ほんとうにお変わりになった」
「うん。たくさん勉強をさせてもらった」
「正直申しあげて、もう一度お目にかかれるとは思っておりませんでした」
陽子はうなずく。
「わたしもだ。──人の形にはならないの?」
「裸で御前《ごぜん》にはまかりかねる」
その憮然《ぶぜん》とした声がおかしくて、陽子は小さく笑った。
「では着るものを調達に、とりあえず帰ろう。金波宮《きんぱきゅう》に戻れるまではしばらく玄英宮《げんえいきゅう》に居候《いそうろう》だけど」
陽子が笑うと麒麟はもう一度目をしばたいて、その場に身を伏せる。動きにつれて背が不思議な光沢を放った。
「天命をもって主上にお迎えする」
首を垂れてその角を陽子の足に当てる。
「御前を離れず、詔命に背《そむ》かず、忠誠を誓うと誓約申しあげる」
陽子は薄く微笑んだ。
「──許す」
これが陽子にとっての、物語の始まりである。