「楽俊」
呼ばれてネズミは顔をあげる。
「母ちゃん」
髭《ひげ》をさわさわさとそよがせた。
「妙なお客を拾っちまったぞ」
陽子はきょとんとせざるをえなかった。帰ってきた女はまちがいなく人間に見える。彼女もまた驚いたように楽俊と陽子を見くらべた。
「お客って、おまえ、この娘さん、どうしたんだい」
「林で拾った。こないだの槙《しん》県の蝕《しょく》で、あっちから流されてきたんだと」
まあ、とつぶやいて、女は楽俊の顔を見る。堅《かた》い表情が顔をかすめた。
陽子は身構える。この女も槙県で逃げだした海客《かいきゃく》の噂を聞いているだろうか。だとしたら、はたして楽俊のように陽子を匿《かくま》ってくれるだろうか。
「……そりゃ、たいへんだったろうねえ」
息を詰めて見守る陽子に向かって女は笑った。そうして楽俊をふり返る。
「なんだい、おまえ。だったら呼び戻してくれればよかったのに。娘さんの世話がおまえにちゃんとできたのかい」
「ちゃんとできたさ」
「どうだかねえ」
笑ってから、女は笑いを含んだままの目で陽子を見やった。
「……ごめんなさいよ。あたしは用で出てたものだから。楽俊はちゃんとあなたの面倒を見れたのかしら」
「あ、……はい」
陽子はうなずく。
「熱を出して身動きができなかったところを、助けていただきました。ありがとうございます」
あら、と女は目を丸くした。陽子のそばに駆け寄ってくる。
「もうだいじょうぶなのかい、起きて?」
「はい。ほんとうにお世話になりました」
答えながら、陽子は油断なく女の表情を探る。
楽俊はまだいい。獣だから。女は信用できない。信用するのが怖《こわ》い。
「そんなことならなおさら、母さんを呼べばよかったのに。気がきかないねえ」
女に言われて楽俊は不満そうに鼻先をあげた。
「ちゃんと面倒見たさ。具合もすっかりよくなったし」
女は陽子の顔をのぞきこむ。
「よかったこと。……起きていてもつらくない? まだ寝ていたほうがよくはないかい?」
「もう、だいじょうぶです」
「そう。ああ、こんな薄着で。──楽俊、着物を出しておあげよ」
あわてたように楽俊が隣の部屋に駆けこんだ。
「お茶もすっかりさめてるじゃないか。ちょいとお待ちね。今、いれなおしてあげようね」
玄関の戸をしっかりと内側から戸締りして、バタバタと裏口から井戸端へ消える女を陽子は見送る。薄い上着のような着物を抱えて戻ってきた楽俊にそっと声をかけた。
「お母さん?」
「そうだ。父ちゃんはいない。うんと前に死んだからな」
楽俊の父親というのは、人間だったんだろうか? ネズミだったんだろうか?
「ほんとうのお母さん?」
おそるおそる聞いてみると、楽俊は不思議そうにする。
「もちろん、ほんとうの母ちゃんだ。母ちゃんがおいらをもいだんだからな」
「もいだ?」
楽俊はうなずく。
「リボク──里の木──から、もいだんだ。おいらの入った木の実を」
そこまで言って楽俊は、はたと気がついたように、
「あっちじゃ子供は母親の腹になるってほんとうか?」
「……うん。普通、そうだね」
「腹に木の実ができるのか? そうしたらどうやってもぐんだ? 腹の外にぶら下がってるのか?」
「もぐ、っていうのがよくわからない」
「木になったランカを取るんだ」
「ランカ?」
「卵の果実。このくらいの」
楽俊はひとかかえほどの大きさを示した。
「黄色い実で、なかに子供が入ってる。それが里木《りぼく》の枝になって、親が行ってもぐんだ。あっちじゃ卵果《らんか》はならないのか?」
陽子はかるく額を押さえた。これはおそろしく常識が違う。
「ちょっとちがうみたい……」
楽俊は問いかけるように陽子を見る。陽子は苦笑した。
「あっちじゃ子供は母親のお腹《なか》のなかにできる。母親が産むんだ」
楽俊は目を丸くした。
「鶏《とり》みたいに?」
「ちょっとちがうけど、そういうカンジかな」
「どうしてできるんだ? 腹のなかに枝があるのか? 腹のなかにある実をどうやってもぐんだ?」
「うーん……」
陽子がさらに頭を抱えたところで、母親が戻ってきた。
「さあさ。お茶をいれようね。お腹はすいてないかい?」