陽子の知らない間に、午寮《ごりょう》の街を出たのか。それとも、女が見落としたのか。
それを確かめる方法はない。
街道から午寮の街に向かって頭を下げた。これはなにかの罰《ばつ》だろうと、そう納得するしかなかった。ここで全部をなげだしてしまうことだけは、どうしてもできなかった。
夜に歩いて昼には眠る。再びその生活が始まった。こうして旅をすることが多いから、陽子はこの国の夜ばかりを覚えている。
財布は楽俊が持っていたので陽子には所持金がない。妖魔と戦って過ごす夜も、飢《う》えて草むらで眠る朝もあまりにおなじみのことだから、不満を感じたりはしない。目的のある旅だからいい。阿岸《あがん》へ行って、雁《えん》国へ渡る。船に乗るには料金が必要だろうから、それだけはなにか方法を考えなくてはならなかった。
拓丘《たっきゅう》で海客《かいきゃく》の老人に荷物を盗られてから、逆算してみると陽子はひと月以上、街道をさまよっていたらしい。飲まず喰わずで珠《たま》の力を借りて、それが限界。それがわかっているから、これまでのどの旅よりもましだろう。
蒼猿《あおざる》はもうあらわれない。鞘《さや》がもどって、剣の幻もなりをひそめた。わずかに水音がして鞘と柄《つか》のすきまから光がもれることがあったが、あえて鞘から抜いて幻を見ようとは思わなかった。そのかわりに黙々と歩く。ひたすら先を急いだ。
──あさましいこったな。そんなに命が惜しいかよォ。
歩きながら、胸の内に蒼猿の声を聞く。
あれはそもそも陽子自身の不安だから、蒼猿の姿はなくても声は明瞭だった。
──惜《お》しいな。
『恩人を見捨てるような命でもか』
「少なくとも今は、自分の命を惜しむことにする。そう決めた」
『いっそ役所に自首し出て、すっぱり全部つぐなっちゃどうだい?』
「雁国についたら考える」
きゃらきゃらと、その笑い声までが聞こえる気がした。
『ようはてめえの命が惜しいだけかよォ』
「そう。狩られているから、今はなにより命が惜しい。狩られる心配がなくなって、自分の命がまるごと自分のものになってから、どういう生き方をするのか考える。反省もつぐないも、そこで考えようと思ってる」
──ただ、生きのびることだけ。今は。
『妖魔を殺して、人を剣で脅《おど》しながらか』
「今はしかたないと思うことにする。今は迷わずに、とにかく早く雁国につくことを考える。雁国につけば少なくとも、追っ手に向かって剣を向けずにすむから」
『雁国につけば、それで全部丸く収まるのかい?』
「そうはいかないだろうけど。ケイキも探さなくちゃならないし、帰る方法も探さなくちゃならない。考えることもたくさんある」
『ケイキが味方だとまだ信じてるのか? エェ?』
「会えばどちらか、分かる。会うまでは考えない」
『ケイキに会ったところで、帰れねえぜ』
「帰れないことがはっきりするまで、あきらめない」
『そんなに帰りたいか? 誰も待っちゃいねえのにヨォ』
「それでも、帰る……」
陽子は故国で人の顔色を窺《うかが》って生きてた。誰からも嫌われずにすむよう、誰にも気にいられるよう。叱《しか》られることが恐ろしかった。今から思えば、なにをそんなに怯《おび》えていたのだろうと、そう思う。
ひょっとしたら臆病《おくびょう》だったのではなく、たんに怠惰《たいだ》だったのかもしれない。陽子にとっては、自分の意見を考えるより他人のいうままになっているほうが楽だった。他と対立してまでなにかを守るより、とりあえず周囲にあわせて波風を立てないほうが楽だった。他人の都合にうまくあわせて「いい子」を演じているほうが、自己を探して他とのしのぎを削《けず》りながら生きていくよりも楽だったのだ。
卑怯《ひきょう》で怠惰な生き方をした。だからもう一度帰れればいいと思う。帰ったら、陽子はもっと違った生き方ができる。努力するチャンスを与えられたい。
──そんなことを静かに考えながら歩いた。