楽俊は陽子を待って、港で働いていたらしい。入港した船の手入れを手伝う仕事だったようだが、それをさも嬉しそうに語って聞かせた。
はじめて得た仕事を、楽俊は陽子に会ったのを機に辞《や》めた。仕事に切りがつくまで烏号《うごう》にいてもいいんだよ、と言うと、人を待っているあいだ働きたいと最初からそう言ってあったのだからかまわないのだと言う。
船が入った翌日には烏号を出て関弓《かんきゅう》に向けて出発した。陽子には高額でないとはいえ決して少なくはない額の給付金があったので、余裕のある旅になった。昼間に街道を歩き、夜には街に入って宿を取る。雁《えん》国の街はどこも大きく、同じ料金の宿でも設備は巧《こう》国のそれより数段よかった。夕刻には街に入り、宿を取って夜の街を見物する。特に楽俊は店頭をのぞいてまわるのが好きだった。
穏やかな旅になった。もはや陽子を追ってくるものはない。衛士《えじ》の姿を見るたびにおびえる必要はないのだという事実になれるのには時間がかかった。夜に街の外へ出ることはなかったのでよくわからないが、人の話を聞くかぎり夜道を歩いても妖魔とであうことはほとんどないようだった。
そんな旅のさなか、陽子が湯を使うあいだに散歩に出ていた楽俊が、海客《かいきゃく》の噂を拾ってきたのは烏号を出て十一日目、関弓までの道のりをようやく三分の一過ぎたころだった。
もう雁国にいるのだから、すこしは華やかな格好をすればいいのに、と楽俊に言われながら、陽子は相変わらず男物の服──袍《ほう》というらしい──で過ごしている。そのほうが気楽なので、いったんなれるとの丈の長い女物の着物を着る気になれなかった。
すると当然のように少年だと思われるので、雁国の宿には風呂があったが入りづらい。共同のサウナのような風呂らしいが、部屋で湯を使ってがまんするしかなかった。路銀に余裕があるので宿はちゃんと部屋を取っている。それでもなんとなくもったいない気がして一部屋ですませているので、風呂のたびに部屋から追い出される楽俊には迷惑な話かもしれない。
盥《たらい》で湯を使って髪を洗った。こちらの世界にまぎれこんでいくらも経たないころ、達姐《たっき》に髪を染めてもらってからずいぶんと月日が流れた。髪もずいぶん伸びている。達姐が庭先の草の根で染めてくれたのを、見よう見まねで同じような草を探し、試行錯誤で染めてきたが草の種類だか染め方だかが違うらしく、後から染めた部分は洗うたびに色が薄くなってしまう。いまではもとの赤と大差なかったが、そんな奇妙な色の髪にも、もうなれた。あいかわらず鏡を見るのは妙な気がしたが、正視に耐えないというほどでもない。いまさらのようにこちらになじみつつある自分を確認しながら体を洗って服を着がえた。
そこへ楽俊がもどってきて、海客の噂を披露したのだった。
「この先の芳陵《ほうりょう》って郷城に海客がいるらしいぜ」
「……そう」
会いたいとは思わなかった。会いたくないとも思わないが、会って同胞に落胆するのはかえってつらい。
「壁落人《へきらくじん》てえ人だそうだ」
「壁、落人?」
「ああ。庠序《しょうじょ》の先生らしいな」
では、あの老人ではないのだ、と陽子は思った。よく考えてみるまでもなく、あの老人のはずがないのだけれど、それは少しだけ陽子を安堵《あんど》させた。
「会いに行くだろう?」
楽俊は疑いのない目で陽子を見る。
「行ったほうがいいいんだろうな」
「行くんだろう?」
「そうだね……」