「ほんとうに延《えん》王に会えるのかな」
歩きながら聞くと、楽俊は髭《ひげ》をそよがせる。
「さてな。おいらも王にお目通り願ったことはねえからわからねえ。いきなり王に会おうとしてもむりだろうなぁ」
「じゃあ?」
「関弓《かんきゅう》へ行けば郷《ごう》も県もあるが──まずはタイホにお目通りを願ってみるかい」
「タイホ?」
楽俊はうなずいて前肢の先で宙に文字を書く。
「台輔《たいほ》。宰輔《さいほ》をこうお呼びするんだ。ええと、一種の尊称かな。関弓があるのは靖《せい》州、靖州の州侯は台輔だからな」
陽子はじっとその文字が書かれた場所を見つめた。
「……聞いたことがある」
どこかで、タイホという音を聞いた。
「そりゃあ、あるだろうさ」
「ちがう。多分、むこうで」
ずいぶん昔に聞いた音だ。そう考えて、タイホと呼んだ声を思い出した。
「ああ、そうか。ケイキがそう呼ばれていたんだ」
楽俊は真っ黒な目をぱちくりさせる。
「台輔? ケイキ?」
「うん。わたしをこちらに連れてきたひと。この剣をくれて……」
陽子はすこし笑った。
「わたしの使用人らしいよ。わたしを主《あるじ》だって言ってたから。そのわりに、態度は横柄《おうへい》だったけど」
「……ちょっと待ちな」
楽俊があわてたように手をあげた、尻尾《しっぽ》までが陽子を押し止めるようにあがる。
「ケイキ、だって? そいつが台輔と呼ばれていた?」
「だけど。知り合い?」
陽子が聞くと楽俊は恐ろしい勢いで首を横にふる。それから思い悩むように髭を何度か上下させた。
「陽子がケイキの主……」
本当にずいぶん前のことだ。陽子はそう思う。
アルバムをめくるようにさまざまのことが思い出されて、陽子はしばらく押し黙っていた。ふと息をついて我に返ると、楽俊が二、三歩離れたところでじっと陽子を見あげている。ひどく途方《とほう》にくれたように見えた。
「どうかした?」
「……した」
首をかしげる陽子を見あげたまま楽俊はつぶやく。
「ケイキってのが台輔と呼ばれていたなら、そいつは、ケイ台輔だ……」
「それが?」
呆然《ぼうぜん》としたように見える楽俊の様子《ようす》が不思議だった。
「ケイキがケイ台輔で、それでなにか不都合でも?」
楽俊は道端に腰をおろして陽子を手招きする。隣に腰をおろした陽子を、それでもしばらくじっと見あげた。
「ケイキがなにか? あの人はなに?」
「……これは大変なことだ、陽子」
「わからない」
「ゆっくり説明する。落ちついて聞きな」
ゆるやかに不安がはいのぼってきた。陽子はただうなずいて楽俊を見返す。
「台輔、ってのをもっと早く言ってくれりゃあ、驚くほど事態は簡単にすんだんだ。多分陽子はこんなに苦労することはなかった」
「楽俊、よくわからない」
「台輔と呼ばれるのは宰輔だけだ。ましてやそいつの名前はケイキだという。だとしたら、それはケイ台輔のことだ。それしかありえない」
「うん。それで?」
楽俊は髭をそよがせる。小さな前肢を伸ばして陽子の手に触れそうになり、思いとどまったようにそれをやめた。
「だったら、そいつは人じゃない。妖《あやかし》でもない。……キリンだ」
「キリン?」
「麒麟《きりん》。麒麟は最高位の霊獣だ。普段は人の形をしている。台輔は人じゃねえ。必ず麒麟だと決まっている。ケイキは景麒、と書く。名前じゃねえ、号だ。慶《けい》東国の麒麟を意味する」
「うん……」
「慶国は青海《せいかい》の東岸、ちょうど雁《えん》国と巧《こう》国にはさまれる場所にある。気候の穏やかな、いい国だった」
「今は国が乱れている?」
楽俊はうなずく。
「去年王が亡くなられて、新王が践祚《せんそ》なさっていない。王は妖魔を治めて怪異を鎮《しず》め、災異から国を守る。だから、王がいないと国は乱れる」
「……うん」
「景麒がおまえを主と言うなら、おまえは景王《けいおう》だ」
「え?」
「慶東国王、景」
陽子はしばらくぽかんとする。あまりに隔《へだ》たりのある言葉にうまく反応することができなかった。
「おまえは……慶国の新しい王だ」
「待って。わたしは……たんなる女子高生だったんだよ? たしかに胎果《たいか》かもしれないけど、そんなたいそうな人間じゃない」
「王というのは玉座《ぎょくざ》に就《つ》くまではたんなる人だ。王は家系で決まらない。極端を言えば、本人の性格とも外見とも関係がない。ただ、麒麟が選ぶかどうか、それだけなんだ」
「でも……!」
楽俊は首をふった。
「麒麟は王を選ぶ。景麒が選んだのがおまえなら、景王はおまえだ。麒麟はどんな者にも従わない。麒麟に主と呼ばせることができるのは王だけだ」
「バカな……」
「天は王に枝を渡した。三つの実は土地と国と玉座を示す。土地は地籍と戸籍のことだ。国は律と法のことだ。そして玉座は王の徳目である仁道、──すなわち麒麟を意味する」
言いながら、なおも楽俊は途方にくれたように見えた。
「陽子が人とも、たんなる胎果ともちがうわけもわかった。……景麒と契約を交わしただろう」
「なに?」
「契約がなんだかは、おいらも知らねえ。ただ、王は神で人ではねえ。麒麟と契約を交わした瞬間から、王は人ではなくなる」
陽子は記憶を探る。しばらく記憶をつまぐって、許す、と言った一言を思い出した。
「……景麒がなにかを言って、許す、と言ったことがある。そうだ、あのとき景麒が妙なことをして、そのあとすごく変な感じが……」
なにかが自分のなかを駆け抜けていった、あの感じ。その直後に、職員室の窓ガラスが割れて、大勢の教師が怪我《けが》をした中で陽子だけが無傷だった。
「妙なこと?」
「わたしの前に膝《ひざ》をついて、頭を下げたんだ。……というか、わたしの足に額を当てて……」
「それだな」
楽俊が断言する。
「麒麟は孤高不恭《ここうふきょう》の生き物だ。王以外には従わず、決して王以外の者の前で膝を折らない」
「でも……」
「詳しいことは、おいらに聞いてもわからねえ。延《えん》王にお聞きしな。おいらは一介の半獣だ。神の世界のことはわからない」
そう堅い声で言って楽俊は陽子を見あげる。じっと見つめて髭をしおしおとそよがせた。
「陽子は遠い人だったんだな……」
「わたしは」
「ほんとうなら、おいらなんかが口をきける方じゃねえ。陽子、なんて呼び捨てにも、もうできねえなぁ」
言って立ちあがる。
「そうとなれば、一刻も早く延王にお会いするのがいい。関弓へ向かうよりも近くの役所に届け出たほうが早い。事は国の大事だからな」
背を見せたまま言ってから、あらためて陽子を見あげた。
「遠路のことでお疲れとは存じますが、ここからならばまっすぐ関弓に向かわれるよりも官に保護をお求めになるほうが早い。延王のご裁可あるまで宿にご逗留《とうりゅう》願わねばなりませんが、ご寛恕《かんじょ》ください」
深々と頭を下げた姿が悲しかった。
「わたしは、わたしだ」
「そういうわけには」
「わたしは」
ひどく憤《いきどお》ろしくて声が震えた。
「わたしでしかない。一度だってわたし自身でなかったことなんかなかった。王であるとか、海客《かいきゃく》であるとか、そんなことはわたし自身には関係ない。わたしが、楽俊とここまで歩いてきたんだ」
楽俊はただうつむいている。丸い背が、今は悲しい。
「どこがちがう。なにが変わったの。わたしは楽俊を友達なのだと思ってた。友達に豹変《ひょうへん》されるような地位が玉座なんだったら、そんなもの、わたしはいらない」
小さな友人の返答はない。
「そういうのは差別っていう。楽俊はわたしを海客だからといって差別しなかった。なのに王だと差別するのか」
「……陽子」
「わたしが遠くなったんじゃない。楽俊の気持ちが、遠ざかったんだ。わたしと楽俊のあいだにはたかだか二歩の距離しかないじゃないか」
陽子は自分の足元から楽俊の足元までに横たわった、わずかな距離を示した。
翌春は陽子を見あげる。前肢が所在なげに胸のあたりの毛並みをさまよって、絹糸のような髭がそよいだ。
「楽俊、ちがう?」
「……おいらには三歩だ」
陽子は微笑《わら》う。
「……これは、失礼」
楽俊の前肢が伸びて陽子の手にちょこんと触れた。
「ごめんな」
「ううん。こっちこそごめん。変なことに巻きこんで」
陽子は追われている。楽俊が王だと言うのなら、ほんとうにそなうのかもしれない。だとしたら追われる理由もそれになにか関係があるのだろう。
楽俊が真っ黒な目で笑った。
「おいらが雁《えん》国に来たのは自分のためだ。だから陽子が気にすることはねえ」
「わたしは、楽俊にたくさんの迷惑をかけた」
「迷惑じゃねえよ。迷惑だと思ったら最初からついてきてねえ。いやだと思ったところで家に帰ってるさ」
「……怪我までさせて」
「ややこしかったり危険だったりするのは承知のうえだ。それでも、ついてくることが自分のために値打があると思ったからついて来た」
「お人好《ひとよ》しなんだ、楽俊は」
「そうかもな。だとしても陽子を見捨てて危険じゃないところにいるより、陽子といっしょに危険なところに行くほうが自分にとって値打があることだと思ったんだ」
「まさか、こんなに危険だと思ってなかったでしょう?」
「だとしたら、おいらの見込みが甘かったんだ。それはおいらのせいで陽子のせいじゃねえ」
それ以上は言葉を見つけられなかったので陽子はただうなずいた。
小さな手をにぎって、そうしたら申しわけない気分でいっぱいになった。
海客をちゃんと申し出なければ罪になったりはしないのだろうか。追っ手の妖魔たちが、陽子が出たあとになって楽俊の家を襲ったりしてはいないだろうか。家を出るとき彼が母親に言った、「母ちゃんはしっかり者だからひとりでもだいじょうぶだな」という言葉は暗に、追っ手やそのほかの困難が彼女を襲う可能性のあることを告げてはいないだろうか。
陽子は腕を伸ばす。ふかふかした毛皮を抱きしめた。わわわ、と奇声をあげる楽俊を無視して灰茶の毛皮に顔を埋める。想像どおり、ひどく柔らかい感触がした。
「ほんとうに巻きこんでごめん。ありがとう」
「陽子ぉ」
狼狽《ろうばい》したふうの楽俊を放す。
「ごめん。ちょっと……感動した」
「いいけど」
楽俊はきまり悪そうに毛並みを両手でなでつける。
「おまえ、もうちょっと慎《つつし》みを持ったほうがいいぞ」
「え?」
聞くと楽俊は髭を垂れる。
「でなきゃ、もっとこっちのことを勉強しろ。な?」
困ったように言われて、陽子は釈然としないままうなずいた。
「うん」