提出したその文書が受けつけられれば宿へなんらかの応答があるだろうと、楽俊は言う。陽子には事の重大さがのみこめないままだった。ましてや自分が王である自覚など逆さにふっても出てこない。だからといって楽俊の行動をあえて妨げる気にもなれず、言われるままにおとなしく構えていた。
「どれくらいかかるの?」
「さてなぁ。とにかく事情を書いて宰輔《さいほ》に謁見《えっけん》を願い出たが、どれくらいで宰輔の手先に届くかなぁ。こればっかりは経験がねえからわからねえ」
「役人を捕まえて頼み込むわけにはいかないの?」
陽子が聞くと楽俊は笑う。
「そんなことをしても叩き出されるのがオチだ」
「もしも、無視されたら?」
「呼び出してもらえるまで、根気よく書状を提出に行くんだな」
「ほんとうにそんな面倒なことをやるの?」
「ほかに方法がねえもん」
「結構まどろっこしいんだ」
「相手がえらすぎる。しかたねえさ」
「ふぅん」
自分がその大事の渦中にいるというのは、なんとも奇妙な気分がした。
役所──ここにあるのは党の役所だった──を出ると、楽俊が宿の方向ではなく広場のほうを示した。
「なに?」
「いいものを見せてやるよ。陽子にはきっとめずらしい思う」
役所は街の奥にある広場に面して建っている。広場を横切る楽俊のあとを首をかしげながらついていくと、楽俊はまっすぐ正面にある白い建物に向かった。白い石造りの壁には金と極彩色のレリーフが施《ほどこ》してある。屋根|瓦《がわら》の青い釉薬《うわぐすり》が美しかった。街の名前は容昌《ようしょう》、建物の門には「容昌|祠《し》」と扁額《へんがく》が掲《かか》げられている。これまで通った街にも必ずあった、街の中心をなす施設だった。
「ここ?」
「ここだ」
「祠、って書いてあるってことは、神様を祀《まつ》ってあるんだ。──天帝?」
「見ればわかる」
楽俊はニンマリ笑って、門を入る。門には衛士《えじ》がいて、楽俊が見学したい旨《むね》を言うと身分証明書の提示を求められた。
門を入ると狭い庭で、さらにその奥に大きな建物がある。繊細な細工をほどこした扉を抜けて中に入ると、奥行きのある広間のような部屋だった。
建物の中は静謐《せいひつ》な空気に包まれていた。奥行きの深い広間の、正面の壁には大きな窓のように四角い穴があいている。その向こうには中庭が見えた。
窓の四方をおおうようにして祭壇めいたものが設けられている。そこにはたくさんの花や灯火や、供え物があげられていた。四、五人の男女が窓に向かって熱心になにかを祈っている。
祭壇の中央には祈る対象があるはず。なのに、そこにあるのは窓でしかない。それとも窓から見える景色だろうか。窓からは中庭と、中庭の中央にある一本の木が見える。
「あれは……」
楽俊はかるく祭壇に向かって手を合わせ、すぐに陽子の手を右に引く。祭壇のある正面の壁の左右に、さらに奥へ向かう広い回廊があった。回廊に入ると白い砂利《じゃり》をしきつめた中庭が見える。そこにあるものを見て陽子はしばらくぽかんとした。
白い樹だった。陽子が山の中を放浪しているときにたびたび休息を求めた、あの不思議な樹。山で見たものよりも大きいが、高さには変わりがない。枝を広げたその直径が二十メートル程度。枝の最高部が二メートル前後で最低部は地につくほど。白い枝ばかりで葉も花もなく、ところどころにリボンのような細帯が結びつけられていて、そこには黄色の木の実がいくつかなっている。山で見た木の実は小さかったが、ここにある実はひと抱えほどもあった。
「楽俊、これは……」
「これが里木《りぼく》だ」
「里木? あの、卵果がなるという?」
「そうだ。あの黄色い実のなかに子供が入っている」
「へぇ……」
陽子は呆然《ぼうぜん》とその木を見守った。道理で故国では見たことがないはずだ、と思った。
「陽子はああしてなってるときに蝕《しょく》がおこって倭《わ》へ流されたんだな」
「なんだか嘘みたい……」
枝も木の実も、金属のような光沢がある。
「子供がほしい夫婦者はそろって祠へやってくる。供え物をあげて、子供をさずけてくれるように願って枝に帯をむすぶんだ。天帝がそれを聞き届けると、帯を結んだ枝に実がなる。実は十月《とつき》で熟す。親がもぎに行くと、落ちる。もいだ卵果を一晩おいておくと実が割れて子供が生まれるんだ」
「じゃあ、実が勝手にできるわけじゃないんだね。両親が願ってはじめてできるんだ」
「そうだ。いくら願ってもできない親もいるし、すぐに実をさずかる親もいる。天がちゃんと親の資格があるかどうか見定めるんだな」
「わたしもそうなの? わたしの枝に帯をつけてくれた親がいたんだ」
「そうだ。卵果を失ってさぞかしガッカリしただろうなぁ」
「その人を探す方法はあるかな」
「どうだろうな。暦《こよみ》を見ればわかるかもしれねえが。陽子の流されたときを逆算して、ちょうどそのころに蝕が起こった場所を探して、流された卵果の数を調べて──。それでも、難しいだろうなぁ」
「そうだね」
探せるものならば、どんな人たちだったのか会ってみたい気がした。自分の誕生を願ってくれた人がこちらにもいたのだというそのことが、ようやく陽子に自分の出自を納得させた。陽子はほんとうならばこちらで生まれたはずだったのだ。虚海《きょかい》に抱かれた、この世界のどこかで。
「子供は親に似てるのかな」
「子が親に似る? なんでだ?」
本当に不思議そうに聞かれて陽子は苦笑した。人の形をした女の子供がネズミの形をしているくらいだ。子と親のあいだにはなんの遺伝的つながりもないのだろう。
「あっちじゃ、親と子は似てるものなんだ」
「へぇ、変わってるなぁ。なにか、それって気持ち悪くないか?」
「悪いかな。どうだろう」
「同じ家のなかに似た奴がいたら気味が悪くねえのかなぁ」
「考えてみると、そうかもね」
陽子が見ている目の前で、若い男女が中庭に入った。なにを相談しているのか、枝を示しては耳打ちをし合い、しばらく迷っては選んだ枝にきれいな細帯を結んだ。
「あの帯は必ず夫婦が自分たちで模様を刺すんだ。生まれてくる子供のことを考えながら、おめでたい模様を選んで、図案を工夫《くふう》して刺繍《ししゅう》する」
「……そう」
それはひどく暖かい風習のように思われた。
「わたし、山のなかでもこの樹を見たな……」
楽俊が陽子をふり仰いだ。
「野木か」
「野木って言うのか、あれ。あれにも実がなってたよ」
「野木にはふたつある。草や木がなるやつと、獣がなるやつと」
陽子は目を丸くして楽俊をふり返った。
「草や木も、動物も木になるの?」
楽俊はうなずく。
「あたりまえだろうが。木にならずにどうやって生《は》えるんだ」
「……えぇと」
子供が木になるものなら、たしかに動物も植物も木にならなければつじつまが合わないかもしれない。
「家畜は里木になる。飼い主がここへ願いに来るんだ。家畜を願う特別な日と方法があるんだけどな。草や木や山の獣は勝手になる。勝手に熟れて、草や木なら種が、鳥なら雛《ひな》が獣なら子供が生まれる」
「種はともかく、雛や子供が勝手になって危なくないの? 鳥の雛なんて、すぐにほかの動物に食べられちゃいそうだけど」
「親が迎えにいく生き物もあるけどな。それ以外のは自分で生きられるまで木の下で暮らす。だから木にはほかの獣は寄ってこねえようになってる。敵どうしの獣は、同じ時期に生まれないし、どんな獰猛《どうもう》な獣どうしでも木の下にいるあいだは戦いをしねえ。それで、夕方街に入りそびれた連中は山に入って野木を探すんだ。野木の下は安全だからな」
「……なるほど」
「反対に、どんな危険な獣の子でも、木が見える場所でつかまえたり殺したりしちゃならない。それがぜったいの掟《おきて》だ」
「そうだったのか……。じゃ、鳥の卵から雛が孵《かえ》ったりしないんだね」
楽俊はなんともいやな顔をした。
「子供が入ってたら、喰えないじゃないか」
陽子がかすかに笑う。
「……うん。たしかにそれはそうかも」
「なぁんか、陽子の話を聞いてると、あっちは気味の悪いところみたいだなぁ」
「そうかもな。──妖魔は? やっぱり妖魔のなる木があるの?」
「だろう、当然。もっとも妖魔のなる木を見た奴はいねえけどな。どこかに妖魔の巣があるって話だし、きっとそこにあるんだろうなぁ」
「へぇ……」
陽子はうなずき、ふとした疑問を感じたが、あまりにはしたない質問なので訊《たず》ねるのは思いとどまった。遊郭《ゆうかく》があったりするのだから、まぁそういうことなのだろう。
「どうした?」
「なんでもない。連れてきてくれてありがとう。なんだか嬉しかった」
陽子が笑うと楽俊も破顔する。
「そいつはよかった」
中庭にいる若い夫婦はまだ枝に向かって手を合わせていた。