「おまえの国と民のことだ。好きにすればいいが……」
延は苦笑混じりに言う。
「何にしても景麒《けいき》だけは迎えに行かせてもらいたい。王が玉座《ぎょくざ》を捨てると言うならなおのことだ。せめて宰輔《さいほ》だけでも、国のために残してやってほしい。──どうだ?」
延の言葉に陽子はうなずく。
「まだ、結論を出したわけじゃないし、景麒を取り戻すことには異存ありません。──でも、どうやって?」
「力でもぎとるしかないだろう。景麒は征《せい》州にいるらしい。偽王軍の真ん中だからな」
「景麒を取り戻すことができれば、わたしは帰れますか? これはたんなる疑問ですけど」
延はうなずく。
「麒麟《きりん》は蝕《しょく》をおこすことができる。おまえは虚海《きょかい》を渡れる身体になったのだから、造作はない。もしもおまえが是が非でも帰りたいのなら、景麒が否と言っても延麒に送らせると約束しよう」
フェアな人物だ、と陽子は思う。王にならないのなら帰さないと脅迫することもできるのに。
「オレはやだからな。そのときはちゃんと景麒を説得してくれよ」
延麒が声をあげて、延は少年をねめつけた。
「六太《ろくた》」
「知らないようだから、知っておいてもらいたい。蝕が起これば災害になる。麒麟だけならちょっと風が吹く程度だけど、王がいっしょだとなると大災害になる。あちらにだって被害は出るんだからな」
「倭《わ》にも?」
「そう。あっちとこっちは、本来混ざってはいけないもんだからな。あんたがこっちにきたときの蝕で巧《こう》国にずいぶん被害があったらしいが、王が虚海を渡ったにしちゃ、たいしたことがなかったうちだ。今度はそうはいかないだろう。オレはそういうことに手を貸すのはいやだからな」
「もしも帰ることになっても、延麒には迷惑をかけないようにする」
「くれぐれも、よろしく」
苦笑気味にうなずくと、今度は延が堅い声を出した。
「だが、陽子。あちらに帰ったからといって安全になるわけではない」
「──わかっています」
塙王があきらめない限り、あちらにも妖魔はやってくるだろう。帰るときには災害を起こし、戻れば妖魔の襲撃で巻き添えを食う人間がきっといる。陽子は疫病神だ。こちらにとつてもあちらにとっても、陽子の帰国は迷惑な話だが、それをわかっても、決心はつかない。
「わたしがあちらに帰る前に、塙王を討《う》っておくというのは?」
「それはできん。少なくとも俺は協力しない」
「できないんですか?」
延はうなずく。
「これだけは覚えておけ。王には決して犯してはならぬ罪が三つある。ひとつは、天命に逆らって仁道に悖《もと》ること、いまひとつは天命を容《い》れずに自ら死を選ぶこと。そうして最後のひとつが、たとえ内乱を収める為であろうと、他国に侵入すること」
陽子はうなずき、
「でも、あなたたちは? 慶国に景麒を奪取に行くのは?」
「景《けい》女王が先頭に立つのであれば、親征だな。我らは景王の請願に従って助力をするだけ」
「なるほど」
延は太い笑みを浮かべた。
「景麒奪取のためにわが雁《えん》国の王師をお貸ししてもいいが、いかがなされる」
陽子は苦笑して頭を下げた。
「よろしくお願いします。──失望させるようなことばかり言って申しわけありません」
延麒は顔をしかめて笑った。
「尚隆《しょうりゅう》は胎果の王が増えてほしいんだ。気にしてやることはない。何しろ、今までひとりだったからな」
「今現在、ひとり?」
「今現在、ひとりだな。過去に何人かいたようだけど、そんなに数は多くない」
「延麒も胎果《たいか》なんでしょう?」
「そう。オレと尚隆と泰麒《たいき》と。陽子で四人目だな」
「泰麒、ということは戴《たい》国の麒麟?」
「そう。戴極国の雛《ひな》さ」
「雛、って」
「成獣じゃなかった」
「延麒は?」
「オレは成獣だよ。麒麟は成獣すると外見の成長が止まる」
「と、いうことは、延麒のほうが景麒よりも早く成長したんだ」
「そおゆうこと」
なんだか得意そうに言うのがおかしかった。延はただ苦笑している。
「泰麒は成獣じゃなかった?」
「そう」
「過去形?」
陽子が聞くと、延麒は難しい顔をして延と顔を見合わせる。
「──泰麒は死んだ。少なくとも死んだと伝えられてる。いま戴国は騒乱の渦中だ。泰麒も泰王も行方が知れない」
陽子はためいきをついた。
「たいへんなんだね、こちらも」
「人がいるとややこしい。そういうものさ。──名を高里《たかさと》……なんといったかな。歳のころならあんたと同じぐらいだろう」
「男の子?」
「麒というのは雄《おす》のことだな。きれいな黒麒麟だった」
「黒麒麟?」
「麒麟を見たことがあるか?」
「人の形なら」
「毛並みは雌黄《しおう》、背が五色、鬣《たてがみ》は金が普通だな」
「延麒の髪みたいに?」
「そう。どうやらこれは髪じゃない。鬣だ」
そうだったのか、と陽子は思う。
「泰麒は黒だ。磨きあげた鋼《はがね》の色をしてた。毛並みは漆黒《しっこく》、背が銀……というのか、すこし変わった感じの五色だな」
「珍しい?」
「珍しいな。歴史の中でも黒麒麟はめったいにいない。赤麒麟というのも、白麒麟というのもいるらしいが、オレはお目にかかったことがない」
「へぇ……」
「泰麒が死んだのだったら、泰王も生きてないはずだ。だったら蓬山《ほうざん》に泰果《たいか》──泰麒の果実──が実っていいはずだが、その|様子がないんだな」
「泰果?」
「麒麟のなる樹は蓬山にある。麒麟が死ぬと、同時に次の麒麟が入った卵果がなる。泰麒が死ねば、次の泰麒だな。雌《めす》なら泰麟《たいりん》。これを号を冠して泰果という。──しかし、まだ蓬山に泰果がない。ということは、生きているはずなんだが」
「麒麟に親はいないの?」
「いない。胎果ならともかく、だから麒麟には名前がない。号だけだ」
「景麒も?」
延麒はうなずく。それはなんだか悲しいことに思えた。陽子の思考を読んだように、延麒はわざとらしい渋面を作ってみせた。
「麒麟てのは哀れな生き物さ。王のために生まれてきて、親もなければ兄弟もない。名前さえなくて、王を選べばこき使われる。そのあげく、死ぬときは王のせいだからな。そのはてに、墓もない、と」
延麒がちらと延に視線を向けると、彼の主人はそっぽを向いた。延麒は顔をしかめてためいきをつく。
「お墓がない?」
陽子が問い返すと、延麒はしまったというように視線をそらした。
「墓を作ってもらえない?」
延が苦笑して答えた。
「墓がないわけではない。王といっしょに合葬されるな。ただし死体はない」
「……どうして」
不可思議な生き物だから、死体を残さないのだろうか。
「よせって」
「隠すことでもないだろう。──麒麟は妖魔を僕《しもべ》としてつかう。妖魔に契約を持ちかけるのだな。契約を交わした妖魔は麒麟に服従して使役される。そのかわりに麒麟が死んだあとは、その死体を喰っていい」
陽子は目をあげて延を見、それから延麒を見た。延麒が肩をすくめる。
「そういうこと。うまいそうだぞ、麒麟は。まぁ、死んだ後だからどうでもいいけどさ。……哀れに思うなら、景麒を大事にしてやれ。奴を失望させないでくれ」
陽子には答えられなかった。かわりにふと、
「塙《こう》王は塙麟《こうりん》を失望させることが怖くなかったんだろうか……」
さてな、と延は苦笑した。
「塙王がなにを考えているのかはわからん」
延麒もまた肩をすくめた。
「他国に干渉すれば天命を失うことになるのは確実だろうな。それがわかっていても、塙王はバカをやらずにはおれなかった。それほどの理由があったんだろうな」
「そうかな」
「バカをやって、それが自分の損になるだけだとわかってても、人はあえて罪に踏みこむことがある。人はおろかだ。苦しければなおおろかになるってことだな」
陽子はふと胸を衝《つ》かれ、それでただうなずいた。
「……怖いな」
「怖いか?」
「うん。わたしにはとうていできないという気がする」
延がかすかに笑った。
「麒麟は王に背《そむ》かぬ。だからといって、なにを申しつけてもいやな顔ひとつせぬというわけではない。自分がおろかな人間だということを忘れぬことだ。そうすればおまえの半身が助けてくれる」
「……半身?」
「おまえの麒麟がな」
陽子はただうなずき、それから自分の右隣の席を見た。
そこには一ふりの剣がおかれている。
──水禺刀《すいぐうとう》は過去未来、千里のかなたのことでも映し出す。
延はそういわなかったか。だとしたら水禺刀を支配できれば、塙王がなにを考えたのか知ることができるのではないだろうか?