慶《けい》国|征《せい》州の州都である維龍《いりゅう》まで騎兵が到着するのにひと月がかかる。景麒《けいき》救命を考えるとひと月では心許《こころもと》ない。それで、特に天馬その他を使って宙を駆けることができるものをかき集めて百二十騎の精鋭部隊を作り、これで維龍を急襲することになった。
延《えん》も延麒《えんき》も、その準備に出ていったきり昼食にも夕食にも戻ってこない。
陽子は所在なげな楽俊を残して部屋に戻った。剣をテーブルにおいてその前に座《すわ》る。
陽子は剣の主人だ。理屈としてはできるはずだが、王であることに迷いがある。難しいとは思うが、迷っているからなおのことやってみる価値はあるように思えた。
意識的に幻を引き出す方法はわからない。きっと難しいことではないと思う。
陽子はこちらに来る前、長いあいだ水の音のする夢を見たが、その話を延にしたらそれはこの剣の見せた幻にちがいないと言われた。おそらく剣は敵襲のあることを予見して、主人である陽子に警告を発していたのだろうと。
しかしながらあのときの陽子は、まだケイキに会っていなかったし契約も交わしてはいなかった。それでも剣は陽子を主人だと知っていたのだ。
──天命が先か、選定が先か。
陽子は延にそう聞いた。
陽子は天命を担《にな》って生まれてきたのだろうか。それとも、景麒が選んだから王座を背負うはめになったのだろうか。
わからない、といったのは延麒自身だった。
「おれにも、どうしてこんな奴を選んだのか、さっぱり理由がわからない。ただ、なんとなく、こいつだろうなと思ったんだ」
王を選ぶことは、麒麟《きりん》の本能なのだろうと延麒は言う。
いずれにしても、陽子にとって剣と意志を通じることはそんなに難しいことではないはずだと思う。
陽子はあかりを消した部屋の中で剣を抜き、刀身を見つめる。
──塙《こう》王を。
剣はこれまでずっと故国の幻ばかりを見せつづけてきたが、それは陽子が帰ることだけを考えていたからなのではないかと、そういう気がする。
──塙王の真意が知りたい。
まだ決心がつかないから、おろかな王のことを知っておきたい。
刀身が淡く燐光を浮かべはじめた。光のなかに薄い陰が浮かぶ。水の滴《したた》る音が聞こえはじめた。じっと影を見つめて、それが形をなすのを待つ。
白い壁が見えた。ガラスの入った窓と、そこから見えている庭。その庭には見覚えがある。陽子の家の庭だった。
──ちがう。これじゃない。
強く念じると幻が消える。目の前に光を失った刀身が見えて、陽子は失敗したのを知った。
「一度でできるはずがない」
声に出して言い聞かせて、もう一度刀身を見つめる。一夜に何度も幻を見たことはなかったが、思いのほか簡単に刀身が再び光を浮かべはじめた。
だがしかし、次に見えたのもやはり陽子の家の庭で、軽い落胆を抑えきれない。意識を幻から話さないように注意して、これではないと念じると水面を乱したように幻が揺らいだ。
ついで見えたのは陽子の部屋だった。
──ちがう。
その次は学校。
──ちがう。
何度試しても見えるのはあちらの世界ばかりだった。家を、学校を、友達の家の風景まで見せておきながら、剣はこちらの世界を映さない。
まるで鞘《さや》のようだ、と陽子は思った。鞘の蒼猿《あおざる》のように御《ぎょ》しがたい。
同時にこれは故国へのこだわりを捨てきれない陽子のせいだ。それをわかっているから、あきらめない。
辛抱《しんぼう》強くくりかえして、陽子はやっと幻のなかにこちらの街を見つけた。
やった、と喜ぶ間もなくそれがどこかの街の門前で、そこにたくさんの人間が倒れているのがわかる。
門へ向かった街道は血を吸ってぬかるんでいる。倒れた人々と、苦しげな呻《うめ》き声、そのなかに立って暗い目つきをしている少年。
──いや、陽子自身。
「……よせ!」
あわてて幻を切り放した。
あれは午寮《ごりょう》だ。あそこで陽子は楽俊を見捨てた。
自分のことながら愕然《がくぜん》とした。あんなに陰惨な顔をしていたのか。
陽子は剣を放り出す。まるで剣を恐れたような自分の仕草に気がついて自嘲《じちょう》の笑みが漏れた。
──ほんとうのことじゃないか。
蒼猿が生きてたら、きっとそう言うだろう。
それはまったくの事実だ。目をそらす資格はない。むしろちゃんと直視しなければいけない。おろかな自分から目をそらしたら、きっとどこまでもおろかになる。
あらためて柄《つか》をにぎった。息を整えて刀身をのぞきこむ。すぐに目の前に午寮の門前が見えた。
幻のなかの陽子はほんとうに暗い眼をしていた。荒《すさ》んだ色が一目でわかる。陽子はその目で楽俊を見ている。
(戻って止《とど》めを刺すべきか迷った……)
午寮の街から人が駆け出してきて、幻のなかの陽子はあわてたようにその場を逃げた。逃げだした後ろ姿が揺らいで、今度は山道が現れる。陽子はじっと自分が親切な母子に背を向けるのを見ていた。
達姐《たっき》がいて、海客《かいきゃく》の老人がいた。陽子を護送しようとして命を落とした男たちの家族が泣くのも見えた。海客のせいで、とうらむ声を陽子はじっと聞いていた。
河西《かさい》の街の妖魔に襲われたあとの惨状が映った。午寮の街で、広場に寝かされた死体の列を見た。どこかの街の外壁の下でうずくまる慶《けい》国の難民たちの姿も見える。
陽子はそれらの幻をただ見つめた。見つめながら、幻を拒絶すればかえって暴れるのだと悟った。ただ受け入れて見つめていれば、幻は陽子の見たいものに近づいていく。
王宮が見えた。そこには痩《や》せこけた女がいる。
「堯天《ぎょうてん》に女はいらないのです」
「ですが」
異論を唱《とな》えようとしたのは景麒で、その女が死んだ先帝|予王《よおう》だろうと想像がついた。
「勅命に背《そむ》いて残ったのは罪人、罪人を裁くのに躊躇《ちゅうちょ》する必要があるのですか?」
言い放った予王の双眸《そうぼう》だけが生気を宿していた。肌は死人のよう、痩《こ》けた頬にも筋の浮き出た首筋にも病的な風情《ふぜい》を隠せない。彼女の苦吟《くぎん》が見えた気がする。あんなに痩せてしまうほど彼女は苦しかった。苦しくて苦しくて、おろかなこととわかっていながら罪を犯さざるを得なかったのだ。
荒廃した慶国が見えた。巧《こう》国も貧しかったが、慶国の貧しさは巧国よりさらにひどい。妖魔に襲われる里が見え、戦乱に焼ける廬《ろ》が見える。蝗《いなご》や鼠《ねずみ》に襲われて荒地になった田、氾濫《はんらん》した川から押し寄せた水で沈んだ田には死体が幾つも浮いている。
──王を失っただけで、こんなに国が荒れるのか。
何度も聞いた「国が滅ぶ」という言葉が実感を伴ってよみがえってきた。故国で暮らしていれば現実感のない言葉が、ここで盛んに言われるわけがわかった気がした。
そして次に見えたのが、どこかの山道だった。