泰麒《たいき》はようやく、少しずつ力が抜けていくのを感じた。
「驍宗《ぎょうそう》さまを最初に見たとき、怖《こわ》いと思ったんです……」
「はい」
「驍宗さまが昇山《しょうざん》なさる前から、ずっと令坤門《れいこんもん》のほうから怖いものが来るような、そんな気がしてました……」
それが恐怖でなく、もっとちがった──たとえば、光や希望や、そんな明るいものだったら泰麒は迷わずにすんだかもしれない。
「怖《こわ》がるようなことをする方ではないって、わかってからもずっと怖かった。立派《りっぱ》な方で、優《やさ》しい方だとわかっていたけど、それでもやっぱり怖かったんです」
「そうでしたか」
「ときどきすごく怖いのに、お会いすると嬉《うれ》しかったし、お会いできないと寂《さび》しかった。蓬山《ほうざん》から帰ってしまわれると聞いたとき、とてもとてもつらかった」
景麒《けいき》はうなずく。
「それで、よろしかったのです。王のそばにいることが嬉しくない麒麟《きりん》はいないし、王と別れることが辛くない麒麟もいない。王と麒麟は離れてはならないものなのですから」
「はい……」
「麒麟は天意の器にすぎません。かえして言えば、麒麟に意志などありはしない。ただ天の意志が、通り抜けていくだけ」
泰麒はうなずく。景麒は泰麒の頭をなでる。その手が暖かかった。暖かいと思えることが本当に嬉しかった。
「泰麒はいま、驍宗様が怖かったとおっしゃられた。わたしにはその理由がわかるような気がします」
「……どんな?」
「すくんでおられたのでしょう。それは恐怖ではなく畏怖《いふ》です」
「かもしれません」
「泰麒は己《おのれ》の運命に出会って、すくんでおられたのですよ」
そうだったのだろうか、と泰麒は驍宗を見上げた。その目を見て、そうだったのかもしれない、と思った。
「泰麒は嘘《うそ》などついておられない。もとより麒麟は自王以外に額《ぬか》づくことなどできない生き物なのですから。あなたはまさしく王を選ばれたのです」
「……はい」
景麒は小さな麒麟の、深い色の目をのぞきこんだ。
「できるだけ説明申しあげていたらと、かえすがえすも悔《く》やまれる。せめてもう少し蓬山に滞在していたら。そうすれば泰麒をお悩ませせずにすんだのに。……本当に申しわけありませんでした」
「いいえ。ぼくが早とちりしないで、ちゃんとお聞きしてればよかったんです」
泰麒らしい言いように笑みが浮かんだ。
「──心から、お慶《よろこ》び申しあげる」
「ありがとうございます」
やっと笑顔が見えた。
景麒は子供によりそう驍宗にも視線を移す。彼の麒麟《きりん》の告白を伝えられて、狼狽《ろうばい》もせず落胆もみせず、ましてや責める言葉など口の端にものぼらせず、苛烈《かれつ》な目で景麒を見すえてただ一言、それでも自分は王だろうか、問うた彼。
「──泰王《たいおう》にもお慶びを申しあげる」
「ありがたく存ずる」
太い笑みをうかべた驍宗に、延《えん》もまた慶賀を述べた。
「雁《えん》からもお慶びを申しあげる」
「ありがとう存じます」
「──いつぞや打ちあったな」
「覚えておいででしたか」
「忘れるはずがなかろう。一本とられたのは久々だった。──ただものではなかろうと思ったが、まさか玉座に就《つ》こうとは予想もせなんだな」
驍宗は笑う。
「またお相手を願えましょうか」
「同業のよしみだ。いつなりと」
「泰王」
声をかけたのは、露台の手すりに腰を下ろして見物をきめこんでいた延麒《えんき》だった。
「──ところで、あの趣味の悪いものはなんだ?」
延麒は露台の向こうに見える四阿《あずまや》を示す。
雁は顔をしかめた。
「礼儀を知らぬやつで申しわけない」
いや、と笑って驍宗は少年を見る。
「あれは先帝が残した屑《くず》です。取り壊して官庫に穀物を買う足しにしようと思っておりますが、雁には余剰の穀物がおありだろうか」
「泰王は運がいい」
延期は笑った。
「うちはこのところ豊作続きで、値下がりして困っていたんだ」
微笑《わら》ってそれを見守っていた泰麒の手を、景麒が揺《ゆ》らした。
「お庭をご案内いただけようか。先日は拝見できないままだった」
「はい。──本当に詳《くわ》しくないのですけど」
手すりの上に座った少年が飛び下りる。
「そんじゃ、探検だ」
泰麒は驍宗を見上げた。
「行ってきてもいいですか?」
「行ってこい。日暮れには戻るように。ささやかながら宴《うたげ》をもうけるゆえ」
「はい」
景麒が手を伸ばしてくれたので、泰麒は迷わずその手を握った。
「班渠《はんきょ》と雀胡《じゃっこ》をお呼びしましょうか?」
「いいんですか?」
見上げると、景麒は笑う。
「麒麟《きりん》ばりかですから、かまわないでしょう。泰麒の使令《しれい》もお見せください」
「──はい!」