「……班渠《はんきょ》、悪いが金波宮《きんぱきゅう》に戻ってきてくれないか」
「昇紘ですか」
「うん。なにもしないではいられない。景麒《けいき》に言って、行状を調べさせてほしい。それと北韋の状況を報告してくれ」
「……かしこまりました」
それきりしんと物音の絶えた堂の中で、陽子は眉《まゆ》をひそめる。倒れた子供の姿が脳裏《のうり》に甦《よみがえ》った。ずいぶんと瘠《や》せた子供だった。——確かに、昇紘が故意に殺したかどうか、陽子は知らない。
「かわいそうに……」
まだ小さな子供だった。本当に昇紘が殺したのなら、昇紘のような酷吏をのさばらせておいた陽子の責任にほかならない。今際《いまわ》のきわの言葉が耳に残っている。
「鈴《すず》が泣くから死にたくない、か——」
姉弟だろうか。それとも——。
陽子はふと視線を上げた。
「すず——?」
妙な名前だ。あまりこちらふうではない。むしろ——。
神籍《しんせき》に入ってしまうと、言葉が翻訳《ほんやく》されてしまうから性質《たち》が悪い。思い返してみても、あの少女がどんな言葉を喋《しゃべ》っていたのか、思い出せなかった。容姿も印象に残っていない。ただ、痛いような悲嘆を浮かべた双眸《そうぼう》だけを覚えている。
しまった、と陽子は唇を噛む。なぜ、あの場で気がつかなかった。問いただしてみればよかった。生まれはどこだ、と。
陽子は血のなすりつけられた衣服を見下ろした。
——もういちど、止水に行ってみようか。
思って首を振る。会って陽子になにが言えるというのだろう。昇紘を放置している自分、そして。——慶には海客《かいきゃく》を隔てる法がある。それを陽子は撤廃《てっぱい》できていない。その陽子が海客に会って、かける言葉があろうはずがない。
「……なんて不甲斐ない王なんだ、わたしは……」