夕暮れの中、冬枯れた林の中を近づいてくる影に、陽子は軽く手を挙《あ》げた。
「すまない」
「どうなさったのです、急に街を出ろ、などと」
下生《したば》えを掻《か》き分けて斜面を登ってきた景麒《けいき》は、突然足を止めて眉《まゆ》をひそめた。
「嫌《いや》な臭いがしますね、——主上ではありませんが」
「……分かったか? 悪い。班渠《はんきょ》に怪我人《けがにん》を運ばせた」
景麒は息を吐く。宿に急に班渠が駆けてきて、街を出るように、と言う。案内されてここまでやってきたが、血の臭いに辟易《へきえき》した。
「北郭《ほっかく》の街に妖魔《ようま》が出たとか」
ちらりとねめつけた主人は苦笑をこぼした。
「怪我人を助けただけだ。そう難しい顔をしないでくれ」
「それは事情をうかがってからにしましょう」
陽子は座りこんだままさらに深い苦笑をこぼした。
北郭に宿をとって三日——ここも死臭がすると景麒は言ったが、さすがに近隣に里《まち》がないために、北郭に留まらざるをえなかった——、陽子はその奇妙な街を歩きまわった。人々の苦役によって築かれた隔壁、これは和州《わしゅう》の州侯《しゅうこう》、呀峰《がほう》が我欲のために設けたものだった。はなから大きく隔壁を築けばいいものを、わざと小さく街を作って、季節ごとに大きくしていく。大義名分は人が増えたから、草寇《おいはぎ》を防ぐから。だが、実際には要りもしない隔壁を築いて、その分を通行税に上乗せしていく。
街に人が多いのは、呀峰が明郭《めいかく》から閉め出しているからだった。明郭の地所には莫大《ばくだい》な税を課し、高官しか住めない街にしてしまった。人も店も追い出され、北郭と東郭《とうかく》は異常なまでに肥大している。集まる旅人とその荷、流れこむ荒民《なんみん》、街が手狭になったと言っては、呀峰はろくでもない隔壁を築かせていくのだ。明郭の近郊に住む農民は、地を耕す暇もない、と言った。
「その夫役《ぶやく》をさぼった者が四人、広途《おおどおり》で処刑されるところだった。それで班渠に助けさせた」
「……そうでしたか」
景麒がつぶやくと、陽子はくすくすと笑う。
「刑吏《けいり》に石を投げた女の子がいたな。彼女を連れて逃げ出したのはいいけど、兵に追われた。なにしろこの髪だから目立つだろう? どうも北郭に戻るのは大変そうだったんで景麒に出てもらった。すまないな」
景麒は息を吐く。
「少しも自重《じちょう》してはくださらない」
「悪い……」
言って陽子は膝《ひざ》の上に肘《ひじ》をついた。斜面からは明郭の街が遠くに見えている。
「……わたしは、慶《けい》に釘《くぎ》を打って人を殺す刑罰があるなんて知らなかった」
「——まさか」
「和州では、死刑といえば磔刑《はりつけ》だそうだ」
絶句した景麒を陽子は見やる。
「——そんなふうに、わたしや景麒の知らないことが、たくさん行われている国だ、ここは」
黄領《ちょっかつち》でさえ三割の税、残虐《ざんぎゃく》な刑罰、呀峰や昇紘《しょうこう》のような酷吏《こくり》。登極《とうきょく》のあとふた月にも及んで、各位の地仙《ちせん》が拝謁《はいえつ》に肪れた。呀峰がその中にいたのはもちろん、昇紘もまたその中にいたはずだった。
「誰もが平伏《へいふく》して叩頭《こうとう》するけれど、それは実は嘲笑《ちょうしょう》を隠すためかもしれない。……なんと愚《おろ》かな王だ、と」
「主上《しゅよう》——」
「……官僚がほしいな」
いまこそ、真実、味方がほしい。偽王《ぎおう》を倒すときには思わなかった。雁《えん》という強大な味方があったからだ。延王《えんおう》の助力と王師《おうし》六軍、一糸乱れぬ幕僚《ばくりょう》と将軍たち。陽子自身が兵を采配する必要もなかった。偽王にとらわれた景麒を助けてのち、偽王に与《くみ》した諸侯《しょこう》、諸官は次々に陽子のもとに下った。玉座《ぎょくざ》の威光と雁の威圧の前に下っただけだといまでは分かる。
「——遠甫《えんほ》はどういう人なんだ?」
「遠甫、ですか」
景麒はやや困惑したように見えた。
「——道を知る方です。多くの者が遠甫に教えられている」
「あの方を朝廷に招《まね》けないだろうか……」
景麒は黙して、肯定も否定もしなかった。
「まず官を動かすに、同じく官の奏上《そうじょう》によらず、主上ご自身の判断でなさいませ。それが先決でしょう」
「そうしているつもりだが」
景麒は息を吐く。
「朝廷には権を争う者たちがいるのですよ。他派を引きずりおろすためには罪の捏造《ねつぞう》も辞さない輩《やから》が」
陽子はふと顔を上げた。
「……それは誰のことを言っているんだ?」
景麒はこれにも答えない。
「なにを隠している」
「……なにも。主上はご自身で確かめたことでなければ、納得なさらないでしょう。言うべきことはこれまでに申しあげた。あとは主上がお考えになられませ」
「——浩瀚《こうかん》か?」
もと麦州侯《ばくしゅうこう》、浩瀚。罷免《ひめん》にあたって、景麒は頑強にこれに反対した。
景麒は軽く眉《まゆ》を上げる。
「わたしは誰とも申しあげておりませんが。浩瀚のことを真っ先に思い出されるのでしたら、主上になにか負い目があるからでしょう」
陽子は小さく溜め息を落とした。
「景麒は麟麟《きりん》とは思えないぐらいいやみだな」
「主《あるじ》がとにかく頑固ですから、これくらいでいいんです」
くつくつと陽子は笑って立ち上がった。
「……急がないと門が閉まる。行こうか」
「——どちらへ」
陽子は枯れ草を払いながら、もういちど明郭を見やった。
「明郭の様子は分かった。拓峰《たくほう》に寄って固継《こけい》へ帰る。お前もそんなに堯天《ぎょうてん》を留守にできないだろう?」
うなずいた景麒は気遣《きづか》わしげな表情で陽子を見上げた。
「主上は——」
「うん。分かってる。……できるだけ早く戻らなくちゃならない。街で暮らしてみて、よく分かった。わたしはこちらのことを知らない」
「主上」
眉をひそめた景麒に陽子は笑ってみせる。
「知らないことを知りつくしてから、なんてことを言っていたら、堯天に戻れるのはいつになるか分からない。……そのくらいものを知らないことが分かった」
さようですか、と景麒は苦笑した。
「きっと区切りを見つけたいだけなんだと自分でも思う。——でも、後悔《こうかい》はしていない。わたしには街に降りてみることが必要だった」
「……はい」
「なにかが決着のつくまで待ってくれ。そんなに長くはかけないから」
景麒の返答はない。ただ深く頭を下げた。