馭者《ぎょしゃ》に街の門前で降ろされ、祥瓊《しょうけい》は驚いて隔壁《かくへき》を見上げた。その形状のでたらめなことは祥瓊を驚かせるに充分だった。
「……変な街ね」
小銭を渡しながら馭者に言うと、取者の若者は笑う。
「だろう。旅のひとはみんなそう言う」
「あたし、街の隔壁はまっすぐなものだと思っていたわ」
うん、と若者は隔壁を見上げる。州都ほど大きな街の隔壁なら、ふつうは相当の厚みがあり、上は歩墻《ほしょう》になっているものだった。矢を放つ凹凸《おうとつ》のある女墻《じょしょう》を巡《めぐ》らせ、あちこちに馬面《ばめん》と呼ばれる突出部が作られる。多少の変形はあってもおおむね方形、高さは特に理由のない限り一定なのがふつうだった。それがここ明郭では通常どおりの部分を探すほうが難しい。呆《あき》れるほど高い隔壁がほんのわずか続いているかと思えば、唐突に低くなって向こう側が見える場所がある。女墻どころか、歩墻でさえ満足にない部分があり、これがおそろしく無駄な起伏を描いて奔放《ほんぽう》に続いていた。
「ここは、正確には北郭《ほっかく》っていうんだ」
若者に言われて、祥瓊は彼を振り返った。彼は苦笑するように笑ってみせる。
「ま、宿は北郭か東郭《とうかく》にしかないからね。——もともと亥門《がいもん》の外にくっついた、ほんのちょっとした倉の集まりでさ。その周りにご大層な隔壁が作ってあったんだ。それを季節ごとに広げてこうなった。無茶苦茶だろ? でも、中はもっとひどいよ。古い隔壁が残ったままだから。途《みち》に迷わないようにね」
ありがとう、と声をかけると、彼は複雑な顔でその隔壁を見上げて馬車に戻っていく。祥瓊はあらためて門闕《もん》の中をのぞきこんだ。
隔壁を大きな隧道《すいどう》状にくりぬいた門道に大きな門扉《もんぴ》があるだけの無骨な門、扁額《へんがく》にはただ「明郭」とだけある。その向こうには馭者《ぎょしゃ》の若者が言ったとおり、粗末な石組みの隔壁が立ちふさがっていた。その下には板を寄せ集め、布を張ってかろうじて横になれるだけの大きさに作った天幕小屋がひしめきあっている。どんよりと疲れ果てた顔をした人々の群れが門の周囲にまであふれ、閑地《かんち》では荒民《なんみん》が風のひと吹きでさらわれそうな集落を作っていた。
街の中に一歩入ってみれば、さらにひどいありさまなのがよく分かった。無計画に作られた隔壁の名残り、いったいどれだけの役夫《えきふ》がこの無駄な隔壁のために苦役を強《し》いられたのだろう。はたしてこれで用を足したのかと思われるほど低い隔壁、薄い隔壁も残っている。かと思えば呆《あき》れるほど高く厚い隔壁が残っていたりした。
街は雑然とし、途は曲がりくねり、袋小路だらけだった。これほど分かりにくい街を祥瓊は他に知らない。無秩序に作られた建物、人の流れを無視した馬車|溜《だ》まり、さらにそれを雑然とさせる荒民の群れ。
「いったい、なんなの、この街……」
つぶやいた祥瓊は、街の一方に向かって人々が不安げな視線を投げていくのに気がついた。多くの者が、街の中央部に向かうとおぼしき途にひどく不安な一瞥《いちべつ》を投げて通り過ぎていく。ある者は硬い表情のまま中央部に向かって歩いていき、ある者はその流れに逆らい、背後を振り返りながら怯《おび》えた顔をして反対方向へと急ぐ。
「——?」
祥瓊は首をかしげて、そちらへ向かって歩いていった。ひとつ角を曲がるたびに、中央部へと歩く人が俄然増え、やがては引き返そうにも人の流れでままならなくなる。
「……やめたほうがいい」
突然、声をかけられて、祥瓊は人波に押されながら振り返った。雑踏《ざっとう》の中から老人が祥瓊に向かって手を挙《あ》げている。
「行かないほうがいい。嫌《いや》なものを見る羽目になる」
どういうことだ、と問い返したかったが、人の流れが祥瓊を追い立てていく。周囲をうかがっている間に流されて、いつの間にか祥瓊は街の中央にある広途《おおどおり》まで来ていた。
それは広途というより、広場といったほうがいいような、唐突《とうとつ》に開けた場所だった。半壊した隔壁に囲まれた開けた通り。その周囲に並んだ兵士たちと、中央につながれた数人の人間。
——嫌なもの。
広場の中央に引き立てられた人々の腰に打たれた綱《つな》、それを持った屈強な男たちを見れば、なにが起こるのか分かる。広場の土に敷かれた厚い板がさらに確信を強めさせた。
「磔刑《はりつけ》……」
あの板に人を釘《くぎ》で打ちつける。
「芳《ほう》以外にも、こんな刑罰をやっているところがあったの……?」
死刑のない国はない。——そう、楽俊《らくしゅん》は教えてくれた。だが、ふつうは斬首《くびきり》、よほど重い刑罰でも梟首《さらしくび》、それ以上の刑罰はどこも行わないようになったと法に詳《くわ》しい半獣《はんじゅう》は教えてくれた。ならば当然、慶《けい》にもないはずではないか。
「見ないほうがいい」
裘《かわごろも》を引く者があって、振り返ると疲れ果てた顔をした中年の小男がいた。
「娘さんには酷《こく》だ。戻りなさい」
「……どうして、あんな」
男は首を振った。
「和州《わしゅう》でいちばん重いのは、税を納めないこと、夫役《ぶやく》を休むことだ。おおかたそのどちらかだろうよ」
「でも……磔刑なんて……」
「知らんということは旅人だろう。悪いことは言わんから、このまま和州を出るんだな。ここにいたら、いつかああなる」
「そんな——」
祥瓊の声に、悲鳴が被《かぶ》った。ごつ、と釘に石を振り下ろす音が悲鳴の合間に続く。祥瓊は思わず振り返り、板の上に片手を打ちつけられた男がのたうつのを見た。
「……やめて」
さらに重い音がして、祥瓊は思わず目を閉じ、首をすくめた。
——芳でもよくあったことだ。他ならぬ祥瓊の父親が容赦《ようしゃ》なく人々を刑場に引き出した。
とっさに脳裏をよぎったのは、危うく自分が車裂《くるまざ》きにされそうになったときの恐怖だった。祥瓊を里祠《りし》の前の広途に引き出した里人、その恨《うら》みの声、怨詛《えんそ》の叫び。祥瓊を憎《にく》んで棒を振り上げた閭胥《ちょうろう》。
もういちど悲鳴が聞こえて、広場を取り巻いた人々の間からも悲鳴があがる。そのどよめきが、釘を打つ嫌な音を消してくれた。祥瓊は耐えきれず一歩下がり、その踵《きびす》に当たった石に、転びそうになる。
——石。
人の拳《こぶし》大の石だった。それくらいの大きさの石が、途《みち》には無数に転がっている。ひょっとしたら隔壁から壊れ落ちたものかもしれない。
また悲鳴がひびいた。
芳の閭胥《ちょうろう》、沍姆《ごぼ》の息子《むすこ》は刑吏《けいり》に石を投げて殺されたのだったか。税が夫役《ぶやく》がどれほどのことだ。大の男が泣き叫ぶほどの苦しみに匹敵するとは思えない。
「——やめて!」
祥瓊はとっさに足元の石を掴《つか》んでいた。
なぜ、誰も止めない。これほどの人間がこの場にいて。
考えるより先に手が動いて、それを人垣の間から投げつけていた。力なく飛んだ石は、人垣を押し止める兵の一人に当たって、黒々とした土の上に落ち、いかにも重たげに転がっていった。
しん、と人垣の声が途絶《とだ》えた。
「——誰だ!」
誰何《すいか》する声があって、祥瓊はとっさにその場を退《さが》る。
「いま、石を投げた者、出てこい!!」
すぐ側の人々の視線が刺さる。祥瓊を突き出したものかどうか、思い悩む顔をしていた。
「引きずり出せ!!」
命じる声が聞こえて、すぐ前の人垣が割れる。さらに一歩を退った祥瓊の腕を掴む者があった。弾《はじ》かれたように祥瓊はその手を振りほどいて踵《きびす》を返し、人混《ひとご》みを掻《き》き分ける。その腕を、追ってきた手がさらに強く掴んで引き倒すようにする。
「……こっち」
祥瓊は膝《ひざ》をつき、その腕の主を見た。同じ年頃の少女だと思った。思ったすぐ後に着ている褞袍《がいとう》が目に入って少年だろうかと思う。
「——こっちだ。急げ」
強く言われて、深く考える間もなく、腕を引かれるまま人混みの足元を掻き分けた。ほとんど這《は》うようにして何歩か、掴まれた腕を引かれて立ち上がり、腕を取った人物が掻き分けるようにして人の間に拓《ひら》いた道をやみくもに突っ切っていく。
「——どこだ! 出てこい!!」
背後の怒声にちらりと目をやり、祥瓊はその場を抜け出した。
人混みを抜け出し、祥瓊は手を引かれるまま走る。いかにも迷いやすそうな街路を駆け抜け、街のはずれの隔壁の、裂《さ》けたように壊れた場所から街の外に転がり出た。
「……無茶をする」
言われて祥瓊は肩で息をしながら、ようやく腕を放した相手を見た。紅《くれない》の髪が目に鮮《あざ》やかだった。
「……ありがとう……」
背後の街では騒然とした声が起こっている。
「気持ちは分かる」
相手の声は苦笑するふうだった。
「深く考える前に手が動いてたの」
「そういう感じだったな」
歩き出した相手——どうやら少女だ——の後に従いながら、祥瓊は背後を振り返る。まさかとは思うが、自分の周囲にいた者に迷惑はかからなかっただろうか。罪人たちはどうなったろう。
祥瓊の心中を察したように、少女は祥瓊をちらりと振り返る。
「大丈夫だ」
妙に自信ありげな声に、わけもなくうなずいたとき、横合い遠くから鋭《するど》い声が飛んできた。
「——いたぞ! あの娘だ!!」
見れば、遠くの隔壁の角を十人を超えるほどの兵士が曲がってくる。ぎくりと身をこわばらせた祥瓊の腕を、少女が掴《つか》んで体を入れ替える。
「行け。逃げろ」
「——でも」
「わたしのことは気にしなくていい」
妙に不敵な笑みを見せて、腰に手をかける。すらりと剣が抜かれて祥瓊は目を丸くした。佩刀《はいとう》していたのか、と問いかける間もなく、少女の手が祥瓊を押し出す。押されるままによろめき走ってなおも振り返れば、行け、と強く促《うなが》された。
「大丈夫ね?」
「心配いらない」
祥瓊はうなずいて、その場を駆け出す。街の周囲は閑地《かんち》、横切れば確実に目立つ。とにかく複雑な起伏を繰り返す隔壁に沿って疾走《しっそう》した。
角を曲がる刹那《せつな》、目をやれば、閑地に飛び出し太刀《たち》を構える赤い髪の姿が見えた。囮《おとり》になってくれたのだ。二手に分かれようというのか、手を挙《あ》げて指図する兵の姿が見えた。ほとんどの兵が閑地に向かって駆け出していく。
——ありがとう。
心の中で言って、祥瓊はひたすら走り始めた。隔壁に沿ってとにかく駆け、潜《もぐ》りこめる場所を探す。隔壁の低い場所はないか、出てきた場所のように切れ目はないか。
さらに角をひとつ曲がったところで、頭上から声がした。
「——おい」
追っ手かと身をすくめて見上げた祥瓊に差し出される手がある。やや低くなった隔壁の歩墻《ほしょう》の上から手を伸べている男がいた。
「こっちだ。手を貸せ」
祥瓊はわずかの間迷い、ちらりと背後に目をやる。たったいま曲がってきたばかりの角の向こうから、駆けつけてくる足音が聞こえた。
「急げ」
押し殺した声に促《うなが》されて、祥瓊はその手を掴《つか》んだ。年の頃は二十五、六か。がっしりしているものの特に大きくも見えない男が、信じがたい力で祥瓊を隔壁の上に引き上げる。ちらりと目をやった角から姿を現した兵は三人ほど。
「逃がすな!」
抜けそうになった肩の痛みにあがる声をかろうじて呑《の》みこみ、爪先《つまさき》のかかった隔壁を蹴《け》って、祥瓊は歩墻に這《は》いあがる。その足を捕まえそこねた手が、祥瓊の足首を掻く。男に手を引かれるまま歩墻に転がり出た。
肩で息をしながら、地に両手をついて振り返ると、歩墻の上によじのぼってくる兵の姿がある。男はそれを頓着《とんちゃく》なげに蹴り落とした。兵の叫びと怒声、次いできらりとかざされた槍《やり》。
「——逃げて!」
突き出された槍の穂先の根本を男は掴《つか》む。そのまま引き比べるように幾刹那《いくせつな》、兵がたまりかねたように槍を放した。すかさずそのまま槍の握りを兵の喉元《のどもと》に突き入れる。
「飛び降りろ」
男は槍を空《くう》を切って取り構えながらつぶやく。妙に飄々《ひょうひょう》とした横顔に、祥瓊はうなずいた。歩墻《ほしょう》の端から下の途《みち》までは二丈ほど、隔壁と隔壁の間に挟まれたごみの散乱する袋小路だった。背後に兵の怒声と悲鳴を聞きながら、祥瓊は転がるようにして飛び降りる。足元から衝撃が突き抜けて、思わずその場に倒れこんだ。
肩で息をしながら身を起こし、頭上を振り仰ぐと、男が胸ぐらを掴んだ兵を隔壁の外に放り投げたところだった。男は手にした槍を隔壁の向こうに放り出し、身を翻《ひるがえ》して飛び降りてくる。
「……大丈夫か?」
祥瓊はとにかくうなずいた。彼は苦笑するようにやんわりと笑って、隔壁を見上げた。
「もう一人の娘は上手《うま》く逃げたかな。——仲間か?」
祥瓊は首を振った。荒い呼気が喉を灼《や》いて、声を出すことができなかった。
細い袋小路に人気《ひとけ》はない。とりあえず近づいてくる人の足音も聞こえなかった。
「動けるか?」
男に訊《き》かれて、祥瓊はもういちど首を振る。ほんの短い間に一日分動いた気がする。とてももう動けそうな気がしなかった。そうか、と鷹揚《おうよう》な顔で笑って、男は背を向けて屈《かが》みこむ。
「負ぶされ」
戸惑った祥瓊を彼は振り返る。ほら、と急《せ》かされて、祥瓊はおとなしくその背にすがりついた。男は揺るぎのない動きで立ち上がる。
「しばらく眠ったふりでもしていろ。休める場所に連れていくから」