院子を囲む三つの堂屋には、二十数人の兵士じみた男たちがたむろしていた。女の数も二、三ある。どの女も見事な体格をしていた。
翌日にはとりあえず歩くぶんには痛まなくなったので、祥瓊は宿代がわりに厨房へ行ってみた。竃《かまど》にかけた釜《かま》の中まで埃《ほこり》が積もっていて、ろくに使われていないことが歴然としている。
「……呆《あき》れた」
「——なにがだい?」
独り言に応答があって、祥瓊は文字どおり跳び上がった。
「……びっくりした」
「そりゃ、すまん。——大丈夫かい、歩いて?」
「もうそんなには痛くないから。……でも、この厨房、本当に使ってるの?」
桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]は軽く笑った。
「だいたいみんな飯は外で食ってくるからな。本当を言えば茶ぐらい沸《わ》かしたいんだが、なにしろご覧のとおりだから」
「じゃあ、お茶ぐらい沸かせるようにするわ」
「手伝おうか?」
ここで手伝うくらいなら自分ですればいいのに、と祥瓊は桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]を見上げ、それが聞こえたかのように、桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]は照れくさそうに笑った。
「……いや。掃除ぐらいしたほうがいいのは分かるんだが、どこをどういじっていいのか、分からないんだ、実は」
「呆れた。よほどのお家に生まれたのね」
男だろうと女だろうと、二十歳になれば独立する。自分の身の回りのことぐらいはできるものだ。できない人間はよほどの家に生まれて、使用人がいた証拠、それも独立してからもなお、誰かが面倒を見てくれるほど豊かだった証拠だ。
「うーん。そうかな」
「じゃあ、とにかく釜を洗うわ。水を汲《く》むのを手伝って」
「はい」
妙に折り目正しい返答がおかしかった。大小の釜《かま》を二人で抱えて厨房から裏に出ると、井戸端《いどばた》に水瓶《みずがめ》が置いてある。柄杓《ひしゃく》が突っこんであったので、どうやら水の飲みたい者はここから勝手にすくえということらしかった。
「本当に誰も世話をしてないのね……」
「みんなこういうことが念頭にない連中ばかりなんだ」
「この水瓶、いつ洗ったの? 信じられない」
「そうか……?」
「まあ、いいけど。——|桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]《かんたい》は慶《けい》のひと?」
「そうだ。——祥瓊は?」
「……生まれは芳《ほう》よ」
「そりゃまた、ずいぶん遠くから来たもんだな」
祥瓊は水をこぼした瓶を手で洗いながら笑う。
「そうね。……本当に遠くだわ。この季節に雪がない国があるなんて思わなかった」
へえ、と桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]は釣瓶《つるべ》を投げこみながら相づちを打つ。
「芳以外にも磔刑《はりつけ》なんて、ひどいことが行われてる国があるとも思わなかった」
うん、と桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]は水を汲《く》んで瓶にかける。
「和州は特別だ。州侯《しゅうこう》は手段を選ばない奴だからな」
「慶全部というわけじゃないの?」
「さあ。慶の全部を知るわけじゃないが。……まあ、こんな無茶苦茶をするのは呀峰《がほう》だけだろうな」
「——呀峰? 和州侯?」
「そうだ。和州には豺虎《けだもの》が二匹いる。和州侯呀峰、止水郷郷長|昇紘《しょうこう》」
「止水郷……それ、あたしが行こうと思ってたところだわ」
「——なに?」
険しい顔で問い返されて、祥瓊は少し肩をすぼめた。
「止水に行けば、土地と戸籍《こせき》をくれるって。戴《たい》から荒民《なんみん》を集めてるのよ。——知らない?」
桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]は首を振った。
「それは知らない。初めて聞いた。ずいぶんな人を乗せた馬車が止水へ向けて通ることがあるが、それか」
「ああ、やっぱりそうなのね。……それで止水に行けば職ぐらい見つかるんじゃないかと思って」
「やめたほうがいい」
「——どうして?」
「言ったろう。和州には獣《けもの》がいる。昇紘はその筆頭だ」
「でも、荒民《なんみん》を助けてくれるぐらいだから……」
「昇紘は人を助けるような奴じゃない。行けば必ず後悔することになる」
「そんな……」
|桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]《かんたい》は厳しい顔をした。
「止水が人を集めるのは、人が減るからだ。土地には限りがある。どんなに豊かでも、どんどん荒民を集められるはずがない。集められるからには、集められただけの人間が死んでるってことだ」
そうか、と祥瓊は唇を噛《か》む。
「……そういうこと……」
分かっていないから、これまでにみすみす、止水に行くことを勧《すす》めるような言動を取ってしまった。あれらの人々の中に、本当に止水に行く者がいればどう詫《わ》びればいい。
「——景王はなにをしてるの」
なぜそんな豺虎《けだもの》を官吏《かんり》のままのさばらせておく。慶には新しい時代が来たのではなかったのだろうか。
「王はだめだ……」
桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]が息を吐いて、祥瓊は彼をまじまじと見る。
「だめ?」
「朝廷は官吏に牛耳《ぎゅうじ》られているという噂《うわさ》だな。前の王もそうだった。国がどうなろうと構わないんだろう。だからどんな官吏がいようと気にしない」
「なぜ誰も、王にそれを言わないの?」
桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]は呆れたように目を丸くする。
「王に言う?」
「諫《いさ》めないといけないわ、それが本当なら。それともそれは、王が傀儡《かいらい》として使われてるってこと? だとしても誰かが景王の目を覚まさせないといけないわ」
「あんた——」
「たとえ国がどういう状態なのか景王が知らないのだとしても、その報いは必ず景王に返るのよ。知らなかったじゃ許されない。力が足りなかったじゃ、許されないわ。誰かがそれを教えないと」
祥瓊のようになるだけだ。あるいは祥瓊の父親のように。
桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]は軽く瞬《まばた》いた。
「あんた、芳のひとだろう?」
祥瓊は、はたと我に返って赤面した。
「そう……だけど。……景王が他人のような気がしないの。同じ年頃の女王だって聞いたから……」
祥瓊は目を伏せる。
「誰かが教えないといけないわ。きっと分かってないの、玉座《ぎょくざ》がどういうものだか」
「どうやって伝える? 相手は堯天《ぎょうてん》の金波宮《きんぱきゅう》の奥だ」
「……そうね」
「それとも、和州に火がつけば気がつくかな」
祥瓊は顔を上げた。|桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]《かんたい》のやんわりとした笑みをまじまじと見る。
「九州のあちこちで火がつけば、足元の火種《ひだね》に気づくかな。——どう思う?」
「……分からない」
この男は祥瓊を助けてくれた。兵に追われた娘をかばって当の兵と一戦交えてしまえば、この男も同様に追われる。——なぜそこまでしてくれる。
初めから追われているのだ。そうでなければ追われる気がある。つまりは、この男は和州州侯に叛旗《はんき》を揚《あ》げる心づもりがあるのだ。
「分からないけど、和州はなんとかしなくちゃいけないわ。このありさまはひどすぎる……」
桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]はいっそ無邪気なふうに笑った。
「俺もそう思う。——さあ、こいつを片づけちまおう。仲間連中に引き合わせるから」