鈴《すず》は陽子の顔を見た。祥瓊《しょうけい》と三人、郷府の一郭《いっかく》にある下人のものらしい臥室《しんしつ》を拝借して、寝支度にかかっていたところだった。
うん、と陽子はうなずく。
「そんなに長くは留守《るす》にできない。景麒《けいき》に恨《うら》まれてしまうから」
「そっか……そうだよね」
「なんだか、ちょっとふんぎりがついた。——ずいぶんいろんなことに迷っていたけど」
「大変なのね、王さまも」
うん、と陽子はもういちどうなずいて、鈴と祥瓊を見比べた。
「ふたりはどうするんだ、これから?」
え、と鈴は目を見開いたし、祥瓊も首をかしげた。陽子は苦笑するように笑う。
「わたしに会いに来たんだろう? もう会ったじゃないか」
ああ、と鈴も祥瓊も声をあげた。
「ほんとうだ。……どうしよう」
言ったのは鈴で、考えこんだのは祥瓊だった。
「それしか考えてなかったのか?」
「考えてなかったの。——でも、とにかく一度、才《さい》に戻らないと。采王《さいおう》にお礼を言わないといけないから」
鈴が言うと、祥瓊は天井をにらむ。
「わたしもお礼を言ったり、お侘《わ》びを言ったりしたいひとが故郷にいるんだけど。——戻っても叩《たた》き出されるだけでしょうねえ」
言って祥瓊はああ、と笑う。
「約束があったんだわ。いちど雁《えん》に行かないと」
約束、と鈴に訊《き》かれて、祥瓊は笑った。
「楽俊《らくしゅん》に会いに行って、報告をするって約束をしたの」
祥瓊が言うと、陽子は少し眉《まゆ》をひそめる。
「——どうしたの?」
「雁には和州《わしゅう》の乱の話が伝わってるかな」
「伝わってるんじゃないかしら。ずいぶん他国の事情に詳《くわ》しいみたいだったもの」
「……心配してるだろうな。よろしく伝えておいてくれないか。なんとかひどい状況にはならずに済んで、落ちついたって」
言って陽子は少し上目遣《うわめづか》いに祥瓊を見る。
「……できれば、わたしがここにいたってことは内緒《ないしょ》で……」
くすくすと祥瓊は笑う。
「分かったわ」
忍びやかな笑いが臥室《しんしつ》に満ちて、ぽかりと会話が途絶《とだ》えた。陽子がふと、つぶやきをもらした。
「……まだ解決してない問題があったな……」
祥瓊と鈴が見ると、陽子は首をかしげる。
「——良い国、っていうのは、なんなんだろう?」
「昇紘《しょうこう》みたいな奴のいない国」
あっさり言ったのは鈴だった。陽子は苦笑する。
「それは分かるんだけど。……ふたりはどういう生き方がしたい? そのためにはどういう国であってほしい?」
陽子が訊《き》くと、祥瓊も鈴も少しの間、考えこんだ。ぽつりと口を開いたのは、祥瓊。
「……寒いのや、ひもじいのは嫌《いや》だわ。里家《りけ》でそれは辛《つら》かったもの。わたしが言ってはいけないんだけど、やっぱり誰かに辛く当たられたり、蔑《さげす》まれるのは嫌だったわ……」
そうね、と鈴もうなずく。
「あたしもそうだったな。我慢するの、やめればよかったのに、そういうのを我慢してると、なんだか気持ちが小さくなってしまうのよね……」
「そう、どんどん内側に向いてしまって」
「でも、これって、ぜんぜん答えにならないね。——ごめん」
鈴が言うと、なにか考えこんでいたふうの陽子は、あわてたように首を振った。
「——いや。参考になった」
「ほんと?」
うん、と陽子はうなずく。そうして、首を傾けた。
「——とりあえず、二人がどうするかは分かったけど、それから?」
鈴と祥瓊は顔を見合わせた。祥瓊は寝台の上に抱えこんだ膝《ひざ》のあたりを眺める。
「……わたし、勉強がしたいわ。なんにも分かってないのが、恥《は》ずかしかったから」
あたしも、と鈴は言う。
「学校に行きたいっていうのとは違うんだけど。……たくさんいろんなことを知りたいの。残念だな、松塾《しょうじゅく》ってもうないのよね」
そうか、と陽子は笑う。
「——では、こういうのは駄目だろうか? 実は遠甫《えんほ》を太師《たいし》にお招きする。金波宮《きんぱきゅう》で働きながら遠甫に学ぶというのでは?」
鈴も祥瓊も目を丸くした。
「ちょっと待って。……それって」
「そんな——」
陽子はふたりを見つめる。
「わたしはいま、ひとりでも多くの手助けがほしい……」
息をつめた鈴と祥瓊の目を順番にのぞきこむようにした。
「虎嘯《こしょう》や|桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]《かんたい》は?」
「もちろん、処遇を考えてみる。——わたしにはあの王宮の中で、信じることのできる人が、本当に一人でも多く必要なんだ」
祥瓊は大きく息を吐く。
「しょうがないわね。行ってあげてもいいわ」
「そうねえ。陽子がどうしても、って言うんなら、助けてあげないでもないかなあ」
「——どうしても」
鈴はくつくつと笑う。祥瓊もまた忍び笑いをもらした。その笑いにつられたように、陽子もまた軽く笑う。
小さな臥室《しんしつ》に、穏やかな笑いがいつまでも響いた。