陽子は拓峰を離れず、拓峰の整理を手伝っていた。街の者は駆け寄ってきては足元に平伏《へいぶく》するので、辟易《へきえき》した陽子は郷城の中に籠《こ》もっている。のんびり鈴《すず》や祥瓊《しょうけい》と話をしながら、折れて散らばる武器を拾い、怪我人《けがにん》のために食事を運ぶ。虎嘯《こしょう》があんなふうでもあり、もともと長い攻防を一緒に戦った仲なので、虎嘯の仲間たちはあっという間に緊張を失って、以前どおりに陽子、と呼ぶ。|桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]《かんたい》などはなにやら態度が改まってしまったが、もともとが将軍では仕方ないというところかもしれなかった。
王師だ、と角楼《やぐら》から声があがって、陽子は城壁に登る。まっすぐに馬車が一両、拓峰に入ってきたのを見て、正門へと駆け下りた。
正門を入ってきた馬車は、陽子の姿を認めてとまる。御台を降りて叩頭《こうとう》した兵士が、車から小さな人影を降ろした。
「——遠甫《えんほ》」
遠甫は兵士を振り仰いでいた顔を陽子に向ける。おお、と破顔した。
「……元気そうだの」
「ご無事でしたか」
うなずく遠甫の瞳の色は深い。
「……蘭玉《らんぎょく》と、桂桂《けいけい》は」
陽子は胸を貫いた痛みに瞑目《めいもく》する。
「……蘭玉は……」
ぽん、と肩に手がおかれた。見ると、虎嘯が中門のほうを示している。
「ご老体に立ち話はねえだろ。せめてどっかに座れ」
陽子はうなずく。遠甫が目を細めた。
「一度お会いしたことがあったの」
「弟が世話になりまして」
「弟さんはご無事か?」
「おかげさんで。後で連れてきてもいいですかね。老師《せんせい》には会いたがってたんで」
「お待ちしておるよ」
虎嘯は軽く頭を下げて、正門のほうに歩いていく。陽子は遠甫を促して、中門のほうに歩き出した。
「……申しわけありませんでした……」
「なにを謝《あやま》るね?」
「わたしが里家《りけ》にいればよかった。……そうしたら……あんな」
「桂桂はどうした」
密《ひそ》かな声が耳に痛い。
「桂桂は堯天《ぎょうてん》にいます。かろうじて命をとりとめました」
そうか、と遠甫はそれだけで理解したようにうなずく。
「陽子のせいではない。気に病むのはやめなさい。わしのせいでもあるんじゃ。どうやらわしが目的だったようだからの」
陽子は顔を上げた。
「呀峰《がほう》はなぜ、遠甫を? ——やはり靖共《せいきょう》になにか」
うん、と遠甫は首を垂《た》れる。
「以前、麦州産県《ばくしゅうさんけん》に——」
「ひょっとして、松塾《しょうじゅく》ですか?」
「聞いておったか」
「やはりそれだったのですか?」
遠甫は自嘲《じちょう》するように笑う。
「それだったのじゃよ。わしが靖共の招きを拒《こば》んだ。それが始まりじゃったな」
「やはり、靖共の——」
「国府から松塾に使いがあってな、みんな靖共の府吏《げかん》になれと。靖共は曲者《くせもの》じゃ。奴に仕えては道に悖《もと》る。わしは松塾の閭胥《ちょうろう》のようなものだったで、相談されて、拒むよう勧《すす》めた。その結果が多くの人の命をうばったの……」
遠甫は軽く身体を曲げるようにして歩く。
「どこか、お怪我《けが》でも?」
「なに、もうほとんどいい。気にするな。——わしは道を貫いたつもりじゃった。だが、道とは他者の命を犠牲にするものではあるまい。ならば、わしの貫いたものはなんだったのじゃろうな。……この歳になっても、まだこうして迷う」
「……はい」
「ときどきわしは、道を説《と》くことよりも、田を耕すこと、武器を持って戦うことのほうがはるかに意義があるように思えることがある。偉そうに人を教えてもこのざまじゃ。ならば、秋に実りのある農民のほうがはるかに意義のあることをしておる」
「遠甫は民に種を播《ま》いてらっしゃるのではないのですか」
遠甫は陽子を見上げてくる。
「……なるほどな」
息を吐いて、遠甫は笑う。
「わしのように長生きしても、まだ迷う。陽子のような若造に論《さと》される。人というものはその程度のものじゃ。お前さんが自分を蔑《さげす》んだり、軽んじたりする必要はない」
「そうでしょうか……」
「その程度のものじゃと、知っておくことに意義があるのかもしれんな」
陽子はうつむき、ややあってうなずいた。
「遠甫にお願いがあるのですが……」
「なんじゃな?」
陽子は院子《なかにわ》で足を止めた。
「朝廷にお招きしたいのです。ぜひ太師《たいし》として、おいでになってもらえないでしょうか」
遠甫はさもおかしげに笑った。
「このおいぼれを三公の首《おびと》になさるとおっしゃる」
「わたしには師が必要です……」
そうか、と遠甫はうなずく。
「せっかく麦侯《ばくこう》に住まいを探してもらったというに、もう戻っても意味がないな。……陽子がわしでもいるというのなら、喜んで参ろう」
「ありがとうございます」
うん、と遠甫はうなずく。
「麦侯は松塾の出身だったんですね」
「そうじゃな。わしは松塾でとくに教えたことはないが、塾頭が連れてきての。陽子に教えるように教えたかのう。……ようできた徒弟《でし》じゃったな」
「申しわけありませんでした。靖共の言を鵜呑《うの》みにして、罷免《ひめん》してしまった……」
「そうおっしゃるからには、誤解は解《と》けたか。それは良かった」
遠甫は破顔する。
「柴望《さいぼう》も喜ぼう」
「柴望?」
「麦州|州宰《しゅうさい》じゃな。あれも松塾の出身じゃ。浩瀚《こうかん》が更迭《こうてつ》されて、あれも官を罷免《ひめん》になった。その後にはお尋ね者じゃ。それでも浩瀚の使いをして何度もわしを訪ねてくれたが。——陽子も一度会っておるのじゃないかな」
「……え?」
「里家に訪ねきた。翌日陽子はあれは誰だと訊《き》いておったろう」
陽子は目を見開く。あの、面布《めんぷ》の男——。
「あれが、柴望だったのですか」
「そうじゃな。——旧来の徒弟に会うのは嬉しいが、せっかくの出来の良い徒弟が不遇をかこっておるのは辛《つら》い。……どうにもそれで蘭玉などには心配させたが……」
陽子は天を仰いだ。
「——どうしたね?」
「いや。たくさんの誤解をしていたな、と思って」
遠甫は首をかしげたが、陽子はただ首を振った。
「……とにかく、ご無事で良かった。お怪我《けが》があったようなので、心配してました」
「なに、わしの怪我などなんということもない。どうせすぐに治《なお》る程度のもんじゃ。——もっともそれで、里家を襲った連中は驚いて、わしを連れて戻ったようじゃったが」
「——え?」
くしゃりと遠甫は笑って、それ以上は答えない。
「はて、しかしながら、金波宮《きんぱきゅう》とはお懐《なつ》かしい」
「遠甫|老師《せんせい》」
くつくつと遠甫は笑う。
「そういうときには氏《うじ》をつけるな。乙《おつ》と申す」
「乙老師?」
遠甫はうなずく。
「生まれは麦州は産県|支錦《しきん》じゃ。いまの支松《ししょう》かの。氏名を乙悦《おつえつ》と申す。別字を老松とも申してな」
遠甫はさもおかしげに笑う。
「達王《たつおう》は松伯《しょうはく》とお呼びになっておられた」
「——は?」
首をかたむける陽子に、遠甫はただ笑い続ける。