それではここで、ホテル恋愛の現場をちょっぴりノゾいてみることにしましょう。次に長々と引用したのは、ボクの短編集『葉山海岸通り』に収められている小説『ヒルトン・ホテル』から、抜粋したものです。去年の暮れまでヒルトン・ホテルだったこの場所は、今年から、キャピトル東急ホテルと名前が変わった、ボクのお気に入りのホテルです。
●
≪ヒルトン・ホテルの客室は、障子窓《しようじまど》になっていた。近くのビルの上に取り付けられた赤や黄色のネオン・サインの光が、デフォルメされた色合いで、部屋の中へと射し込んでくる。その薄明りの中に、二人掛けのソファーと小さなテーブル、そして、壁際に作り付けになった、アメリカン・スタイルのライティング・デスクが見えた。
それは、私のボーイ・フレンドの耕一がアルバイトでためたお金を使って連れていってくれた、四谷や西新宿にある高層ホテルの客室とは、まるで違った雰囲気だった≫
≪振り返ると、私の後ろから部屋の中に入った湯浅君は、廊下側のドア・ノブに "Don't Disturb" の札を掛けていた。ドア・ロックをしながら、チェーンも一緒に掛けると、今度は彼が私の方へと振り向いた≫
≪入口に立っていた時には、バス・ルームの壁の陰になって見えなかったベッドには、苔色《こけいろ》をしたベッド・カバーが、掛かったままになっていた。ピローの上の壁は、クリーム色をした他の部分の壁と違って、日本的な模様の壁紙が貼《は》ってあった。
鈍い銀鼠色《ぎんねずみいろ》をしたその壁紙には、ところどころ、乳白色をした、まあるい円型の模様がある。小さな頃に食べたことのある蝦煎餠《えびせんべい》を、少しだけ大きくしたくらいの模様。
——どこかで見たことあるわ、この模様——
彼は、私の鎖骨に沿って、舌の先を動かす。背骨のあたりに、ジワーンとした感じが襲ってくる≫
≪「このホテル、使ったの、はじめて?」
バス・ルームから服を着て出て来た彼は、両手を首の後ろにまわして、ブレスレットと同じデザインのネックレスのホックを留めながら言った。麻のパンツの上には、細いピン・タックの入ったワイド・スプレッド・カラーのシャツを着ている。
「下の和食堂で、食事をしたことはあるけれど」≫
≪ライティング・デスクの前にあったイスの向きを反対にすると、彼はそこにすわった。そうして、なめし革でできた、多分、イタリアのラリオあたりの上等な靴をはいたまま、足をベッドの上に投げ出した。
——信じられないわ。こんなお行儀の悪いことを、初めて会った女の子の前でするなんて——
「いつでも、このホテルを使ってるんだ、このごろ。知ってる人に会う確率が少ないからね」
ビールを飲みながら、彼は話し始めた。
「外人客と永田町界わいのおじさんが多いじゃない。あんまり若い人って、来ないからさ。夕方に会社帰りのOLなんかが、ケーキを食べに来るくらいで。だから、芸能人でも、お忍びで使う連中って多いんだよ、このホテル。たとえばね、……」と、すぐに何人かの芸能人の名まえを挙げた。その中には、清純なイメージで売っている若手歌手の女の子もいたから、私はびっくりした。
「それにさ、このホテルって、障子窓じゃない。カーテンよりいいんだよね。昼間でも真っ暗になるから」
別に、私が聞きもしないのに、彼は一人でしゃべっている。
「障子ともう一枚、和紙が貼ってある板で出来た戸が付いているからね。明るいとイヤだなんていう子と来ても、平気だし」
——一体、どういうつもりなんだろう——≫
≪振り向くと、彼は、さっきと同じように足を投げ出したまま、ビールを飲んでいた。
——やっぱり、湯浅君と私は、付き合っていけそうもない。いくら、いい車に乗っていても、素敵なレストランに連れていってくれても、そして、将来性があるとしても。性格や感覚が合わなくちゃ、仕方ないもの。それは、ブレスレットをつけて明美と一緒に私のところへやって来た時から、わかり切っていたことだったのに。なのに、こうしてヒルトンの部屋までついて来てしまった。別に、耕一に対して、何か不満があったわけでもないのに——≫
≪街灯もないホテルの下の通り沿いには、国会議事堂前駅の入り口がある。残業帰りのサラリーマンやOLたちが、地下の改札口へと続く階段を降りていく。蛍光灯で明るく照らされたそこだけが、タイム・トンネルの入り口のように見えた。
振り返ると、ビールを飲み終えた彼が、部屋に入った時にしたように、肩をすくめながら、笑っている。
——帰りは、タクシーで帰ることにしよう——
そう思いながら、私は、そっと、障子を閉めた≫