小吉は嫌やな顔をしたがそのまゝ奥へ入って行く。孫一郎は、眼《め》やにをつけて薄ぼけたような顔でぼんやり庭へ向って坐っていた。若いのに、肩が落ちて力もなくがったりしたうしろ姿を見ると、小吉はむか/\ッとして、張り飛ばしてやりたいような気持がしたが、やっとそれを呑込んだ。
「殿様、お暑う」
といった。
「おう、勝さん。いゝところへ来てくれた。わたしは今、剣術をやろうかと考えていた」
「それあ結構だ。あなたに仮りにもそんな気が出るとは、これあこの屋敷にも花が咲く。早速男谷が道場へ行きやんしょう」
「いや、毎日あすこ迄出て行くは大層だ。勝さん、おのしに教えて貰えぬか」
「わたしで良ければお対手はするが、知ってられる通り喧嘩剣術だよ」
「何んでも結構、わたしはぽん/\と対手をなぐりつけただけでもいくらかこちらのからだが、さっぱりするだろうと思ってね」
「ふッ/\/\ふ。それあそうだろう」
「道具はある筈だから早速お願いしましょうか」
「よろしい。が、伺うがね。あなたは用人の平川へ暇をとったらいゝだろうと申したそうだね」
「いゝや」
孫一郎は頻りに首をふって
「そんな事は云わぬよ」
「そうか。それならそれでいゝがね、今も用人部屋へ寄って見たが、あれはなか/\よくやっているよ」
「しかし、あれは、前の岩瀬がように金の工面はつくだろうか」
「つけろというならつけもしようが、お屋敷でこの上の借金は自滅の元だ」
「借金はしたくないが、どうにも速急の金が要るのでね」
晴れた夏空の遠くで、どろ/\と大きく雷が鳴った。小吉は腰を浮かせて
「夏らしく気持のいゝ遠雷だ。ひょっとすると夕立にでもなるかも知れない。さ、思い立ったが吉日、一本、稽古をしよう」
「そうか」
「木刀は型がはずれてぶたれても、ぶっても、からだにこたえて面白いが、殿様に打殺されても困るから、面籠手なし、竹刀でやりやんしょう」
「よろしい」
埃だらけになっている稽古道具を持出して来て、胴をつける孫一郎の不態《ぶざま》な手つきを見て、小吉は何んだか、涙が出て来るような気持がする。
「こ、こ、これでも御旗本の武家か」
せめて胴を上下につけなかったのが見つけものだ。
庭へ降りた。間合をとって向い合う。いつの間にか平川が縁の端近くへ来て、きちんと坐って見ている。
遠雷が頻りだ。
「やッ」
小吉が気合をかける度に、孫一郎は、びくッ/\として、身をひいた。
「どこからでも精一ぱいに打込んで来なくては稽古にならん。来なければ行くぞ」
「いや、わたしが行く。やッ」
孫一郎は時々調子ッぱずれの声をかけるが一歩も出ない。小吉は、とう/\
「やッ」
と行った。金の立派な鳩酸漿《はとほおずき》の大きな定紋のついた桶側胴へ、物の見事に、とーんと入った。
入ったと思ったら、同時に孫一郎は、一間もぶっ飛んでそのまゝ打ち倒れて気絶して終った。
「おい、いけねえね、気絶かえ」
小吉はへら/\笑って
「平川、水を持って来て介抱してやれ」
「はい」
平川はあわてて飛廻って、やっと孫一郎を蘇生させた。
「どうだ、剣術は面白い、さっぱりしたでしょう」
「勝さん、無茶だ」
と孫一郎は頬をふくらまして
「おのしは剣術遣いだ、それがわたしを打《ぶ》つ事はないだろう」
孫一郎は平川を見て
「用人、床をのべさせよ。わしはねる」
やがて臥て終った孫一郎の枕元で小吉は笑い乍ら団扇で静かに風を送ってやっている中に、果して空に黒い雲が出て、忽ちざあーっと物凄い夕立になった。
孫一郎は、さっきから一と口もきかない。
「殿様、平川は剣術遣いだ。明日からあれを対手になさるがいゝね」
「もう剣術をやらない」
「それではいけねえよ。御隠居が時は、あれでも時々庭で剣術をやったのを、御存知だろう。時には大勢剣術遣いを招いて、木刀の型遣いなどを真面目に見ていたものだ。先々々代様迄は柳営《おしろ》でも幅の利いた御家柄が、このまゝくすぶっては勿体ないではないか」
と小吉は膝を寄せて
「第一御先祖へ申訳がない。麹町の御本家様も大層御心配と承っているが」
「ふん、御本家が?」
と孫一郎は白い眼を見せた。
そして如何にもいま/\しいという表情で
「たった三百両の借用方を、にべもなく断るような本家が何んだ。三千石岡部出羽守というは血も涙もないとよく、父上も云っていた」
「いやあ」
と小吉は
「御隠居があの乱行では三百両はおろか、百両、五十両も貸して下さらぬが当たり前だ。かつて御番入の話がほゞ定りかけた時も、御隠居は、得体の知れない女と舟遊びに出ていてこれを失敗《しくじ》った。御本家も無理はないのではないかねえ。が、殿様、用人からきいたが、御隠居が無心の状をよこされたとか」
「うむ」
孫一郎はむく/\と起上った。そして、首をふり胴をさすって
「剣術というものは、骨にこたえるものだね」
と苦笑しながら
「隠居が五両どうしてもよこせ。寄こさなければ、浪人共を差向けるといって来た」
「浪人共を?」
「命知らず共が大勢いるという」
「御隠居は浪人を養って謀反でもお起しなさるつもりかな。とにかく五人や八人の浪人なら平川一人で沢山、百人と来たら一声かければ、わたしが飛んで来る」
「しかし」
「そうですよ。そのしかしさ。御隠居が困っているなら投《ほう》って置く訳には行かない」
「それに」
「はっ/\/\。いろ/\な女共からの無心もあってねえ。そこで、金を借りたい、平川では金は出来なかろう、あれを追払って前の岩瀬権右衛門がような後は野となり山となっても、とにかく急場の金を拵えて持って来る|まかない《ヽヽヽヽ》用人を入れようという。え、もし、そうなんだろうねえ」
孫一郎は黙って終った。
「安心しなさい」
と小吉は
「本当に要る金なら、平川右金吾も確かに作る」
といった。
「そうか」
と孫一郎は半信半疑の顔つきで
「差当って二十両欲しい」
「ほう——。よしその金は作らせる。が、殿様、あんた明日から剣術の稽古をしなさるか。剣術というものは不思議なものだ、稽古をしていれば金の運がついて廻る」
小吉は一寸眉を寄せていたがすぐにへら/\笑い乍らいった。
孫一郎はからだを乗出すようにした。小吉は馬鹿奴ッというように、ちょっとそっぽを向いてから、わっはっ/\と大笑した。
「論より証拠、この勝を御覧な。ぶら/\遊んでいて、別に首が廻らぬ程の借銭《しやくせん》も出来ない。剣術のおかげだよ」
「やる。必ずやるから、おのし平川に二十両拵えさして下され」
「承知した」
小吉が家へ帰って来てお信の顔を見るとすぐ云った。
「岡野孫一郎というのは、あれあ本物の馬鹿だねえ」
「奥様《おまえさま》がお気の毒でございます。そうおっしゃらず御面倒を見てお上げなさいまし」
「うむ。孫一郎なんざあとんと気に喰わねえが、御高《おたか》は違っても同支配で江雪とは古い仲だから、おれは妙にあの男の事が気になってねえ。あれの生きている中は岡野の家の潰れるを見せたくねえ——はっ/\/\、この間、肥溜へ叩き込んでやったが、あれからどうしているかと実は心配している有様よ。女の清明とも仲がいゝのやら悪いのやら、あ奴、どうにも不思議な人間だ」
それから間もなく小吉は三ツ目の古道具市場につゞいた裏に住んでいる世話焼さんの栄助を訪ねていた。
市は休みで、がらんとしているが埃ッぽい様子もないのは、世話焼さんが几帳面で、市場の隣りにやっぱり世話焼さん達と同じように住んでいる二た夫婦を叱りつけてはよく働かせ、掃除を怠けないからだろう。一所帯は甥に嫁を貰ったもの、一所帯は姪に亭主を貰ったものだ。
栄助のおかみさんが平蜘蛛のようになってすぐにお茶を出す。
「頂戴する」
小吉はそういって、茶をのんでから
「実はな、また頼みで来たよ」
「頼みだなんぞと、勝様はどうしてそう幾度申上げても水臭くおっしゃるのでございますかねえ。やっぱりお武家だからでございますね。こう煤ぼけては居りますがね、これでも江戸ッ子の端っくれ、しかも山手なんぞの理詰めな冷めてえところと違ったこの本所《ところ》で、おぎゃあといって、そのまゝ、年をとったおやじでございますよ。栄助こうだと、おっしゃって下さいやしよ。この間だってあゝしてすぐにお金を返しにわざ/\お持ちなさる。口惜しくってねえ。あっしゃ、あの晩とう/\眠れなかった」
「そう云って呉れるは誠にうれしい——実は、おれは商売をはじめようと思ってね」
「商売?」
「お前に手引を頼みてえのだ」
「へ、へーえ」
暫くあっけに取られていた世話焼さんは、やがて一人で大きくうなずいてぱっと手を打った。
「ようがす、引受けました」
とびっくりするような声でいった。
「有難う。ところで、すぐにも儲けてえのだが、差当って口はないか」
「あります。さ、参りましょう」
「え?」
これには今度は小吉の方がびっくりした。
栄助は押入から、刀箪笥へ入ったものを持出して、|うこん《ヽヽヽ》の風呂敷に包み
「これは築地の蔵宿の番頭さんで又兵衛というお方のお頼みの備前|助包《すけかね》でございます。大層な上出来でございましてね。それをまた是非に欲しいというお方がございます。不思議ですね、勝様がお見えなさる小半刻前にそのお話があって、この先きの料理茶屋へお呼出しで御用人竹内久六様とおっしゃるお方が御覧遊ばしてお気に入られ、屋敷へ持参次第買取らすとの事でございます。芝愛宕下の六千石の御旗本松平弾正様」
「おゝ、元の松平伯耆守か。あの方は刀の気違いと云われると、いつか水心子からきいた」
「あれへこれを持って参りましょう。すぐに商売になります」
「いやそれはいけない。お前の商売をおれが横取りする事だ」
「そ、そ、そんな事では、とてもこの先き商売にはなりません。今迄のお気持をがらりとお変えなさって儲ける事なら横合から飛込んで行ってでも引ったくる。それが商売、その御決心がつかないなら、商売をやろうなどと、わたくしのところへお話しなさるのはお止めなさいまし」
「うーむ」
「商売の事については万事この栄助の申付に従うとおっしゃるなら、お世話を焼きましょう。勝様、如何でございますか」
これには小吉も閉口だ。といって、差迫った岡野の金の工面をどうする事も出来ない。平川なんぞに一両だって出来る筈はない。とう/\世話焼さんについて市場を出た。
「お前にそれを持たせては天道の罰が当る」
小吉はそういって刀箪笥の包を自分で持って歩いた。夕立の後で少し涼しかったが、歩いていると暑い。世話焼さんはびっしょり汗になっている。
「ようございますか、勝様はこのお刀のお売《うり》主、わたくしがたゞ御案内でございますよ」
「わかった」
「代は四十五両でございますよ。蔵宿の又兵衛さんは手取金三十両、後は儲け次第と申します。本当なら六十両と申しても決してお高くはない上出来のお品ですからな」