佐野槌のおかみは、お糸にもそう申して参りましたが、もう、句駄《くだ》らない破落戸《ごろつき》のいざこざなどには先生はおかまい遊ばすな、お糸もやっぱり年が若いので、物の分別がつきませぬ故、あのような事を致しますと、ひどく恐縮した。
「いや、句駄らない事に腹を立て、句駄らない事に首を突込むがおれが病《やめ》えでね。面目ない」
「ほほゝゝ、さあ、如何なものでござりましょう。先生を堪《たま》らなく好きな皆々が、いつも先生をそんな処にばかり引きずり込んでいるのでは御座りますまいか」
「こ奴はとばッちりでみんなが災難だねえ」
おかみが出した品は断じて取らない。仕方なさそうに帰って行って終って、その日はもう何事もなかった。
次の日も無事。それでも小吉は
「あ奴ら死ななかったのだねえ」
とお信へ気兼ねしたように、そんな事をいった。
が、三日目の朝、まだ薄暗い中に、精一郎がたった一人で出しぬけにやって来た。座敷の障子を開け放して
「どうだ他行留の間におれが拵《こさ》えた庭だ。よくなったろう」
「はあ」
「ところでこんな早くから用は何んだ」
「叔父上、これはわたくし一人の考えでございますが、この辺で家督を麟太郎どのにお譲りなされ叔父上は御隠居をなされては如何でございましょうか」
「何に、おれに隠居——はっ/\/\、おい、精一郎、おれが大川へ投込んだ板橋辺の破落戸は死んだのかえ」
「え? それは存じません」
と精一郎は不審そうに深く眉を寄せて
「叔父上、実はまた甲州行の尻が出ました」
「はっ/\。あれかえ。あれが出たかえ。あれはおのしにも内密にしたが、やっぱり悪い事は出来ないものだな」
「は」
「出たとすれば、今度は他行留位では済むまい。一間住居か、支配預か、それとも切腹か」
「御支配頭は勝家御取潰しのお考えだと漏れ聞きました」
「えーっ?」
小吉はびっくりして、顔色が変った。暫く堅く口を結んで黙っている。
「死んだ義理の御祖母様《おばゞさま》によく云われた。小吉は勝の家を潰しに来た男だとな。真《ほん》の親から譲られた四十俵なら別に惜しいとも思わねえが、これを潰してはお信に済まないねえ。困ったわ」
流石に頭を抱えた。
「叔父上は、精一郎の申上げる事をおきゝ下さいますか」
「何んだえ」
と、もういつもの顔になっていた。
精一郎はじいっと小吉の両眼を見ている。
「叔父上、勝家四十俵は惜しくなくとも、御家のお取潰しは、麟太郎どのの、世に出る足懸りを失う事になります」
「うむ、うむ」
小吉は精一郎へ大きく頭を下げるようにうなずいた。
「どうしたらいゝ」
「御隠居なさる外に道はないと思います。父上は唯お一人で、お心に秘めて御奔走の様子ですが、わたくしは、如何に父上の力を以てしても不可と見ています。御支配頭から表立って御呼出しの御沙汰のある前に、先《せん》を切って隠居の願書を差出せば、自然、事は消滅致しましょうかと思いますが」
小吉は小さく唸って、うつ向いた。
「麟太郎どのもすでに十六歳。文武共に秀でています。叔父上、隠居をなさっても、後顧更らに憂いなしでは御座りませぬか」
そういう精一郎の顔から、小吉は眼を流して
「お信、すまねえねえ」
とお信の方へいった。
「え?」
お信は一寸小吉の真意がわからない。
「聞いての通りだ。おれは隠居をするよ」
「然様《さよう》でございますか。ほほゝゝ」
「おかしいかえ」
「いゝえ、おかしい事は御座りませぬ。あなたが、お気儘《きまま》をなさるには却ってお宜しい事と、わたくしは心うれしゅう御座ります」
「すまねえ」
と小吉は、頭を下げて、今度は精一郎へ
「おれは知っての通り文字が無い。一切頼むよ」
といった。精一郎はうなずいた。
その間にお信のお茶を精一郎は静かに喫した。
「おれも一服いたゞこうかねえ」
「はい」
お茶を喫し、茶碗《ちやわん》を両手の内へ抱えるようにして撫《な》で乍ら
「おれは本当は左衛門太郎|惟寅《これとら》だが、人もおのれも幼名の小吉ばかりで通って来た。はっ/\、隠居をすると、また名前が要るねえ。いゝ名前をつけなくてはなあ」
「そういう事は、わたくしの父上にお頼み申しましょう」
「岡野の隠居の江雪などは滅法しゃれているが、兄上は無粋だから妙な名前にする事だろうね。はっ/\/\」
精一郎が帰るのを、お信と二人で玄関へ送って、居間へ戻ると、小吉は畳へ手をついた。
「お前には、ほんにすまねえよ」
小吉は瞼がうるんだ。おれがところのお信は偉いなあ、沁々そう思ったからである。
お信はにこ/\しながら
「あなたも、わたくしも長生きを致しまして、麟太郎の立派になるのを見届けてから死にましょう」
「そうだとも、青雲を踏みはずしたあ奴が、また雲へ乗るを見て死にてえな。おれは脚気が病《やめ》えだから、ひょっとして見れなくてもお前だけはきっと長生きをしろよ」
お信は小さく笑いつゞけるだけであった。
三日ばかり何事もなかったが、四日目にやっぱり彦四郎からの呼出しの使者が来た。小吉はそんな事も大体は精一郎から知らせがあったので、ちゃんと行儀のいゝ恰好で出て行った。
彦四郎は思いもしなかった上機嫌で、ちゃんと膳部《ぜんぶ》を整えて待っていた。
「今度は上乗の出来だったな。ほんの一日違いで、勝家お取潰しか、軽く行ってお前は支配預になるところだった」
「そうですか」
「そうだとも——。出しぬけの隠居願で、御支配筆頭松平伊勢守様も御奉行三上筑前守様もあべこべに肝をぬかれ、麟太郎の家督も万々|恙無《つつがな》く行ったわ。恐ろしい一日違いであった」
「は」
「蔭の作者は誰だ。おれが当てる。精一郎であろう」
「はあ」
「あれは出来た。小吉——」
といって、急に
「隠居名はわしが考えた。夢酔《むすい》とせよ」
「え? む、む、むすい」
「夢に酔うと書く。どういう意味か、おのれでよく/\考えて見よ。人生、夢は多い、が、それに酔うてばかりいると、お前がような人間になる」
「は」
「これだ」
彦四郎は膝の横に置いてあった紙片を出して小吉へやった。小吉は、むずかしい字だなあと思った。
彦四郎は何にかしら、不思議にほっとしたような面持で、杯を手にしながら
「麟太郎は近来めき/\腕を上げ、もう、何処へ出しても立派な剣客で通ると精一郎がいう。わしは武芸の事はわからないが、これからが本当の鍛錬《たんれん》だな」
「はあ」
「精一郎がいっていた。道場にはもう敵手《あいて》はいない。あの精一郎の代稽古をしている本目縫之助という若いのが、辛うじて対手が出来る位だというな。この間は本目との稽古で木剣が二度も折れたという——」
「さようで御座いますか」
そこへ精一郎が御城から下って挨拶に来た。彦四郎はすぐ
「あの話はどんな塩梅《あんばい》だ」
と真剣にきいた。
精一郎はいつもと変らぬ顔つきで
「はあ」
といってから
「御頭《おかしら》石川伊予守様が御廊下で出合|頭《がしら》に、わたくしの肩を叩かれて、うまく行ったなと仰せられました」
と静かに答えた。
「お前は何んと御挨拶を申したか」
「はいと申しました」
「馬鹿奴、何故《なにゆえ》ひとえに御厚志によるところでございます、かたじけのう存じますと云わぬ」
「はあ」
「はあではない。厚志によっても依らなくても、そう云わなくてはいかんのが今の世の中だ、年若《としわか》とは云い乍ら自分の住んでいる世の中が、今どんなものになっているか、それが見極められんようでは、出世は出来んぞ」
「はあ」
「それに何んだ。お前は吉報を得ながら、嬉《うれ》しそうな顔もしない。悲しみは深く包んでも喜びはおのれも大きに喜ぶと共に、人にもそれを幾層倍にもして現し示すものだ。これが人に愛される処世第一歩だ」
「は。以後心得ます。御《お》徒歩《かち》頭篠山十兵衛様も、御下城の際ふとお目留められて、石川様御同然の事を仰せられました」
「それにも、はい、と申しただけか」
「はあ」
彦四郎は如何にも困った奴だというような嫌やあな顔をして
「以後はきっと心得なくていかんな」
小吉には二人の話の内容は大体わかったが、わざとそれにはふれなかった。
自分が隠居と定まれば、麟太郎はとにかく支配筋へ顔出しをして廻らなくてはならぬ。そんなこんなの多少の準備もあるから、それから間もなく辞して帰りかけた。
精一郎が送って来る。丁度彦四郎の居間から真っすぐに見通せる屋敷の中庭に新しい材木が沢山積んであった。
「亡き父上《へいぞう》はむごく普請好きであったしまた大工達を指図している時が、一番楽しそうでもあったが、兄上もだいぶその気配《けはい》がある。また普請をはじめるのか」
小吉は縁の廊下を歩きながら指さしていった。精一郎はくす/\笑って
「叔父上の座敷|牢《ろう》の普請にかゝっていたのです」
「ほう」
「小吉の事だから意地張って、隠居願などはしまい。そうすれば勝家お取潰し或は支配預の気配になる。その際は馳走に事寄せて御支配方を招き、すでに座敷牢は出来《しゆつたい》して居りますと、見せつけて取潰し御支配預お取止めの嘆願をするお考えだったようです」
「お前がお蔭で今度は万事うまく行ったね。兄上も何にかと的《あて》がはずれたろう。はっ/\/\は」
自分の屋敷へ帰って玄関でまだ履物もぬがぬ中に笑い乍らお信へいった。
「兄がところでは、もうおれが入る座敷牢の普請にかゝっていたよ。生涯に二度とあんなところへ入れられて堪《たま》るものかよ」
「さようで御座いましたか」
「隠居になって困る事はないが、唯閉口はともかく一度は頭を丸めなくてはならねえ事だねえ。おれが坊主になっては、とんと見っともねえからねえ。途々《みちみち》考げえて来たのだが、当分は頭一ぺえ疥癬《ひぜん》が出て剃刀《かみそり》を当てるもならねえからと、頭巾《ずきん》をかぶって放題に誤魔《ごま》くらかしてやるつもりだ」
「ほほゝゝ」
「そんな事位の尻はもう頼んでもみんなかまいやしねえだろう——はっはっ、そんな事はどうでもいゝが、お信、麟太郎がけえって来るだろうから、その支度をしておいてやらなくてはならねえ。御支配の麻布百姓町の松平伊勢守、船河原の戸塚備前守、表二番町の中山信濃守、二合半《こなから》坂の丹羽、加賀屋敷の久貝、山王三軒家の菅谷、二番町の長井、神田橋の後藤。それから組頭のところが五屋敷、世話役が廿八屋敷。はっ/\、これあ麟太郎も大変だわ」
お信はすぐにやって来てもいゝように、上下《かみしも》をはじめ肌着までの支度をして待っていたが、次の日も次の日も麟太郎は帰って来ない。
三日目は朝の中にさらっと雨が降った。
「おかしいな」
「どうしたので御座りましょう」
何度もそんな事をいったが、とう/\辛抱しきれなくなって、お昼頃に小吉は、精一郎のところへ行った。
東間陳助が、道場の内から、小吉の姿を見たらしく、飛んで出て来た。
「麟太郎はどうしているえ」
「毎日早朝から御小普支配方へ御|挨拶《あいさつ》に御廻りでございます。こちらの先生が御介添で」
「え? 精一郎が」
「はあ」
「うーむ」
と肝をぬかれた恰好で
「わかった。ところで右金吾はその後どうだ」
「だん/\元気になります。先生の仰せの通り、われ/\男ばかりでは手が届きませんので、小女を一人雇入れました」
「よし。おのし真逆、おれが甲州行の尻が出て隠居になったなどと、あ奴には知らせまいな」
「はあ」
「あ奴また気にやむ。間違ってもさとられるなよ」
小吉は屋敷へ帰って来た。大きな声で笑い乍ら
「おうい、お信、麟太郎はけえって来ねえよ」